景虎日記

無駄な考え、無駄なあがき、無駄な偏愛と偏見による電子書籍とWeb小説、その他もろもろの記述。

「電子書籍で買うべきか紙の本かそれが問題だ」に対する俺の答え

 どうも。俺だ。景虎だ。

  先日、デザイン入門教室という本を紹介したときに「紙の本で買った方が良い」と繰り返し言っていたのだが、そのことになんとなく疑問を浮かべていた人が多くいたらしい。

 キミもひょっとすると「普段電子書籍推しなのになんで紙の本なんや」と思っていたかもしれない。当然俺は「紙の本原理主義者」ではないし、「紙の本」に限定して買いあさっているわけでもない。

 しかし、今回紹介した本のような「何度も使うことになる参考書のような本」に関してはどうしても紙の本で買った方がいいと思ってしまうのである。

 その理由について今回は詳しく紹介していきたいと思っている。

 ちなみにデザイン入門教室の記事はこちらだ。

 

www.10kgtr.net

 

 

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今更ながらポケモンGOの本当の危険性について教えてやる

 どうも。俺だ。景虎だ。
 まぁ、最近はもう下火になってきているのだが、今更ながらポケモンGOに関するエントリを書いてみようと思う。

 これを読み始めたキミは「えっ、もうポケモンGOよりシャドバでしょ」などと嫌らしい笑みを浮かべて俺のことを見ていそうな気もするが、流行に乗り遅れたからといって、文句を言いそびれたまま黙っているのはどうにも性に合わないので、どうか少しばかり時間を割いてこの話を聞いて頂きたいのである。

 俺が今回キミに話したいと思っているのは、ずばり本当のポケモンGOの危険性についてである。

 今では完全に下火に弱火といった具合で、もはやポリゴンの如くエンカウントすることのない事柄ではあるのだが、一時期は連日「危険だ危険だ」と報じられており、その度にものすごい違和感を感じていた人もいたことだろう。

 キミもひょっとすると同じような違和感を感じていたしれないが、俺はおそらくはその数倍近く違和感を表明していたつもりである。

 言葉にさえしていなかったが、エアプ勢による内容をよく把握せず繰り出される、「危険性」なるものを聞く度に「なんと浅ましいことだろうか」と任天堂本社の方角を見つめながら嘆いていたほどである。

 そこで、今回キミには実際にポケモンGOのヘビーユーザーとして知られる俺こと天王丸景虎が、実際にプレイしている人として、超熟練ポケモンGOトレーナーとして、そのゲームの持つ危険性について今更ながら紹介していこうと思っている。

 エアプレイのまま、なんとなくポケモンGOを批判していたキミは、出来ればこれを読んで、本当のポケモンGOの危険性と言えるものを学んで、安全にポケモンGOを楽しんで欲しいと思っている。

 それでは、早速いってみよう!

 

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自称知識人に異世界転生ものがヒットしている理由を教えてやろう!

 どうも。俺だ。景虎だ。
 今日は、あるブログエントリを読んで思うところがあったので、それについて至極個人的な見解を述べていこうと考えている。

 ちなみに、書き始めるきっかけとなったエントリはこちらだ。

anond.hatelabo.jp


 このエントリの内容を自分が理解した範囲で要約すると、「努力しないからこそウケる」というKawangoの意見に対して、増田が「いいや、異世界転生が自己投影しやすいからだ。Kawangoはコンテンツへの理解が浅い」といった感じに批判している内容なのである。

 しかし、俺から言わせて貰えば、どちらも本質的なものを全く理解していないと言い切れる。

 今回は両者が見落としている一点について、独断と偏見に満ちたこの俺様が、キミがウンウンと頷けるかもしれない形で語っていこうと考えている。

 ズバリ、異世界転生ものが流行している本質的な理由はなんであるのか、自称知識人の為に、ここで全てを明らかにしてしんぜよう。

  では、参ろうぞ!(喧嘩腰)

 

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性格とは一体どこからが病気なのだろうか?

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今回は俺が最近疑問に思っていることについて、徒然なるままに書き連ねていきたいと思っている。その議題とはズバリ「性格やその人物が持っている思考というもののどこからが病気でどこからが正常なのだろうか?」というものである。

 こんなことを考え始めてしまったのは、うつ病の新たな治療としてデイケアなるものに行き始めたことがきっかけなのだが、なんというか俺だけではなく、おそらくキミにとっても少なからず関係がありそうな話でもあるから、まぁ、話半分にでも聞いていただけるとありがたい。

 それでは始めよう。性格とは一体どこからが病気と言えるのだろうか?

 

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平成生まれの俺が「学問のススメ」をオススメする理由

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今回のブログ記事では、あの一万円札で知られる福沢諭吉が 書いた「学問のススメ」について色々と書いていこうと思うのだが、時にキミはこの学問のススメを既に読んだことがあっただろうか?

 実のところ俺は、最近になるまでこの「学問のすすめ」を読んでこなかったのである。そもさん福沢諭吉に対して「一万円札のあの人」といったイメージしかなく、具体的にどんなことをやった人なのか、また、どんな考えを持っていた人なのかといった部分について全くの無頓着だったのである。

 ひょっとするとキミもそうかもしれない。

 と言うことで、今回はそんなよく見ているけれどよく知らないかもしれない福沢諭吉と学問のすすめについて語っていくとしよう。

 準備はいいだろうか? それではいってみよう!

 

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それでもキミは読者のことがわかっていない!

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今回はこれまた至る所に火がつきそうなエントリについて色々と書いていこうと思っている。

 ズバリ、インディ作家やブロガーやライターであるだろうキミが、読者のことをちっとも理解していないという事についてである。

 言っておくが、「俺が読者のことを考えていないと思うか?」だの「馬鹿にしているのか?」「見下しているのか?」だの「読者のことはしっかりと理解している」だのと激昂しても無駄である。キミはこれっぽっちも理解してなどいない。

 そう、キミはこれっぽっちも読者についてわかっていないと俺は断言できるのである。

 そして、これを書いている俺自身も何を隠そうその「読者を理解していない」「読者をわかっていない」ダメダメ作者の一人なのである。

 悲しいけれどそれは事実である。

 俺もキミも読者をわかっていない。

 これをまずは怒らずに事実として受け入れなくてはいけないのだ。

 そう、わかっているならとっくの昔に売れっ子作家や、アルファブロガー、大手同人サークルになっているはずだからである。

 そうなれないのはひとえに運がないか、読者がどんな人物で何を食べ、何を好み、どういった行動をし、休日はどのように過ごし、どんな性癖で、どんな思想を持っていて、何を求め、何を探しているのかをハッキリと全部把握していないからなのである。

  そう、それを理解した上で、読者が求めていないものを提供できるようになっていないからである。

 それが出来なければ真に読者を理解しているとは言い難いのである。

 

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なぜ大学教授が参入すると電子書籍の未来が変わると言えるのか?

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今回はつい先日Twitter上でつぶやいていた持論について少しばかり掘り下げたエントリを書いていきたいと思っている。

 ズバリ、それは大学教授が電子書籍出版に参入すると、ようやく電書元年というものが本当に訪れるのではないかという話である。

 キミは電書元年という言葉をなんども聞いて、そろそろ飽き飽きしていることだろうけれど、これの「大学教授が参入すれば」の話はそれほど夢見がちな話でもないので、真面目に聞いていただけるとありがたい。

 それでは、始めたい。

 なぜ、大学教授が参入すると電子書籍の未来が変わるのか、その未来予想図について幾ばくか妄想を垂れ流していくとしよう。

 

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ミニマリストよ。カーテンは持っておけと俺は言いたい。

 どうも。俺だ。景虎だ。

 何だかいま巷では「ミニマリスト」というものが一種のブームになっているらしいではないか? 俺はミニマルデザインが好きだし、シンプルイズベストだという考え方の持ち主ではあるのだが、この「ミニマリスト」を標榜する人達をみていて、何だかいたたまれない気持ちになってしまったのである。

 俺のような軟弱物から「いたたまれない気持ちになるよ」などと言われたたら、キミだってきっと良い気分はしないものだと思うのだが、たった一点においてのみ「おいおいそれは違うんじゃねーのか?」と思うことがあったので、この際だ。

 しっかりきっぱりと言っておこうと思うのである。

 そう、なぜミニマリストがカーテンを持っておくべきなのかという話である。

 

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利益が出ないことを肯定する馬鹿にだけはなるな!

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今回は金、金、金とうるさい景虎君に嫌気がさしてきたかもしれないキミに宛てたエントリを書いていこうと思っている。

 ズバリそれは、「利益が出ないことを肯定する馬鹿にだけはなるな」というものなのだが、うむ、わかっている。非常に色んな所に火が付きそうなタイトルなのだろう。

 だがしかし、これは俺が常日頃思っていることであり、そしてモットーとして掲げていることであるから、少なくとも早い段階で誤解をといておかなくてはならないと、無くてもいい使命感にかられてしまっているのである。

 だからこそ、キミには最後までこのエントリを読んで頂きたい。

 そして、利益が出ないことを肯定する馬鹿には金輪際ならないで頂きたいと思っているのである。

 

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一日は皆平等に24時間あるわけではない

 どうも。俺だ。景虎だ。

 キミは当然しらないとは思うが、つい先日ブログを書いているつちだ氏がTwitter上でこんな発言をしていたのだ。

 俺はこれに関してかなり思うところがあり、これをテーマに記事を書いてみたくなったのである。

 ズバリ、「一日は二十四時間ではない」という頭のおかしいテーマなのではあるが、そこで笑っているキミ、ちょっと真面目になって俺の話を聞いて欲しい。

 ひょっとすると、一日は二十四時間ではないかもしれないぞ?

 さて、そんな無謀にも思える内容について

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洋画好きの俺が「吹き替え」にこだわる理由はこれだ!

 どうも。俺だ。景虎だ。

 かなり前にも、はてなのトピックで字幕か吹き替えかの話題が勃発していたとは思うが、俺自身最近思うところがあったので、この議題について書いていこうと俺は思ったのだ。

 ずばり、洋画や海外テレビドラマは字幕派か、吹き替え派かという事に関してである!

 ああキミ、なんだ? その「クソどうでも良い」という顔は?

 確かに割とどうでもいい議題であることはこの俺もわかってはいるのだが、映画通っぽい人から「え、お前吹き替えで見てるの?」と煽られたからには、流石にこの俺様としてもキミに弁明しておく必要があるのだと思った次第なのである。

 それでは、始めよう。なぜ俺が吹き替えにこだわるのか教えてあげよう。

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肩書きや常識に固執するな!【メディアクリエイター否定派おっさんへ向けて】

 
 どうも。俺だ。景虎だ。
 どうやら、最近ブロガー達の新年会とやらが開催され、そこで「メディアクリエイター」という肩書きの是非についてが話題に上がっていたらしい。また、オッサンブロガー達が、「若者よ。夢を見過ぎるな常識を知れ」などと息巻いていたらしい。
 そもさん「なぜ俺はそんな楽しそうな会に呼ばれないのか?」といった痛切な疑問もあるものの、俺自身もその是非について色々と思うところがあり、あれこれ書かなくてもいいことを書いてみたくなったのである。
 だからこそ、今回はそんな「メディアクリエイター」という肩書きについてと、そもそもの肩書きや常識という物について、はたまた、これを考えるきっかけとなった記事について、キミが嫌だといっても書いてみたいと思うのである。
 
 
 いいだろうか? それでは、今日も言葉を武器にザクザクと切り込んでいくとしよう。
 
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そもそも他人の肩書きにこだわりだしたらオッサンである

http://www.flickr.com/photos/12426416@N00/106169979

photo by Dunechaser

 

 

 さてと、キミの中にはあれこれと言い返したい気持ちが渦巻いているだろうが、きっぱり言い切っておくと、他人の肩書きなんてものにこだわりだしたら、そもそもオッサンなのである。
 
 肩書き――それは若者にとってみれば、己のクラスタをはっきりさせてより多くの人と繋がるためのコミュニケーションツールに過ぎず、「多くの人がそう名乗っているし、何だか格好良さそうだから」以外のなにでもないことが多い。
 いわば、Twitterのハッシュタグやプロフィールに載せるオマケのようなものな訳である。
 
 わらさー団に加入するのがただのファッションでしかなく、政治信条などがあってのことでないように、そういった大それた肩書きを名乗る事にも特に深い意味があってついている訳ではないと俺は思いたい。
 
(「いや、それが仮にカッコツケであったからと言って、何が悪いのだろう? ダサいと言っているおっさんどもはさぞかしカッコイイ生き方をしているんだろうな? 若者から憧れられる生き方をしているんだろうな? そうだよな? ええ?」と俺はすごんでみる。)
 
 しかし、オッサンにとっての肩書きは、ある種の社会的権威であったり、猿山の王なのか、それとも取り巻きなのか、ヒエラルキーにすら混ざれない底辺なのかといった己のステータスを示すものになっている気がしてならない。
 
 要するに猿である。
 人間ではなく猿になっているのである。
 
「お前、ボスザルじゃないのにボスザル名乗るのとかダサクね?」とかそういう事なのである。
 
 故に、肩書きや、己の半生をもって作り上げた大愚なる『常識』といったものに囚われて、自縄自縛の情況に自ら望んで陥っていっているのである。別に誰がどんな肩書きを名乗ろうと、キミ自身に不都合がないのにも関わらずである。
 
 少なくとも俺はそんな気がしてならない。
 
 半分おっさんに足をツッコみかけているから、俺も気を付けていかねばならないことではあるが、そんな些末なことに囚われていて、『本当にその人達は人生が楽しいのだろうか?』と俺は心底思ってやまないのである。
 

肩書きにこだわることは怖いことである

http://www.flickr.com/photos/125615321@N04/14843019969

photo by Julien.Belli

 肩書きという物が時に邪魔になるというのは、俺が常日頃思うことではあるが、その一方で「他人から与えられた肩書きはいくらでも欲しい」と思っている自分がいるのである。
 キミだってそうだろう。
 他の人から「スゴイ級ライターだ!」「アルファブロガーだ!」「足が臭いけど世界一素晴らしい父親だ」などと褒められたら嫌な気はしないだろう。しかし、罠はそこに潜んでいるのである。
 
 一つ目の怖さはそこだ。
 
 そういった承認欲求が行きすぎると、己の肩書きや、また他人と自分との肩書きとの差が気になって気になって仕方がなくなってしまうのである。それ故に自分に対して異様な程ハードルの高い肩書きを付けたり、「いや、その肩書きは不格好でしょ」なとといった嫌みを他人にぶつけるという変なことになってしまうわけである。
 前者はまだ可愛げがあるが、後者は本当にめんどくさい奴である。
 肩書きなどというものは自分で付ければ大概どれも不格好なものであるが、そこのところが全く判断が付かなくなってしまう訳なのである。
 
 コワイ!
 
 これは本当に恐ろしいことではあるが、人間誰もが一度は通る道なので、さっさと通過してしまってほしい。
 トンネルは意外なほど短いのでくぐり抜けてしまおう。
 
(「もし、そうでないのなら、自分も何も出来ていないくせに、他人の肩書きを笑っていじるクズである」と俺は再びすごんでみる)
 
 そして、二つ目の怖さは、自分の肩書きに固執するあまりに、自分のやることが縛られてしまうということである。
 特にこれは日本人によくある民族的性質で、それ故に多くの職人が生れているといったメリットもあったりはするのではあるが、どんなことでも行きすぎれば毒になるのである。
 
 どういった毒があるのか? それは簡単である。
 
 肩書きにそった行動を取らねばならぬと思ってしまうところである。
 
 例えば、小説家なら小説を書かねばならないし、音楽家なら音楽を作らなければならず、イラストレーターであればイラストを描かなくてはならず、他のことをしているのはちょっとどこかおかしいんじゃないかという話である。
 
 また、何もしていないのにその肩書きを名乗っているのは本当に正しいのかという所まで被害は及ぶだろう。
 
 かの偉大なる小説家スティーブン・キングが、作家仲間達とロックバンドを組んでいるというのは有名な話ではあるが、ホワイジャパニーズピーポーと厚切りジェイソンが言い始めかねないほどに、日本人はこうした肩書きをやっていなければ名乗っちゃいけない、名乗るからにはやってなきゃいけないというバイアスに縛られてしまっているのである。
 
 小説家が音楽を作ってみてもいいだろうし、普段サラリーマンをやっていて趣味がブログな人が絵を描いてみるのも別にいいことだろう。
 何をやっても名乗っても問題がないはずなのだが、ブロガーを名乗るとブログを書かなくてはいけないような気がするし、小説家と書くと小説を書かなくてはいけないような気がしてしまう。
 
 そしてライターと名乗ると仕事の原稿をそろそろ真面目に書いてお金を稼がないと死んでしまうような気がしてしまうのである。
 
 逆に何もしていないなら何も名乗っては行けないという風になってしまうのである。
 
 一つだけは比較的真実が混じっていたような気もするが、要するに肩書きによって、自分のチャンスの目を潰してしまうからこそ、肩書きという物に固執するのは恐ろしいということなのである。
 
 そう、考えると若者がメディアクリエイターという肩書きを好んで使うのもある意味納得できるような気がするのである。
 
 絵も描きたいし、小説も書きたいし、音楽も作りたいし、ブログも運営してみたい。恋愛もしてみたいし、友達も沢山欲しい。そして何よりクリエイターとして一流だと認められたい。
 
 その為に色々なことをやってみたい。非常に良いことなのではないだろうか?
 これは当然若者だけに限らないことではないだろうか?
 まかり間違っても、「俺はブログしか書いてはいけないんだ」と訳のわからぬバイアスを自分にかけている人や、「何もしていないくせにメディアクリエイター名乗るとか無様ー」と笑っている人よりかは幾分立派だと俺は思うのである。
(まぁ、目標や名乗った肩書きがデカければデカいほど、越えるのは難しいというのだけは本当だろう)
 
 さて、ここまで語れば肩書きにこだわることの怖さがわかっていただけたと思う。そして、他人の肩書きを馬鹿にする事がいかに浅ましいことかもわかっていただけたと思う。
 今日からキミは何でもやっていい人だ。
 何もやっていない人であってもいい。
 職業はライターや小説家やブロガーやサラリーマンだったりするかもしれないが、キミ自身はそういった自分が自分につけたタグに縛られずに行動していいのだ。何でもやっていい人である事を忘れないで欲しい。
 そして、必ずしも何かをやらなくてはいけない訳ではない。
 何もしていないと言われることを怖れて鬱病になるような奴になってはいけない!(俺の事である)
 要するに、キミもハイパーメディアクリエイターなのである。
 だからこそ、誇り高く叫べ。そして己が行動で、天を揺らし、民衆を黙らせろ。
 最後にそれが出来るのは「やった奴」だけになるのだから。
 ゆっくりでもいいのだ。他人に馬鹿にされようと気にしてはいけない。
 

常識にとらわれることは心底馬鹿らしい

 
 次は常識にとらわれることの馬鹿らしさについて書いていこう。
「常識にとらわれることはよくない」「常識にとらわれるな」などと書くと、意識高い系の標語のように思えてしまうが、俺はこれが一番大切なことだと思っているのである。
 なぜなら、キミが「常識」「世間」「一般」などといった言葉を使って話したり、書いたりしている「価値観」は、ほとんどの場合個人的なバイアスがかかっているからである。
 
 わかりやすいように一つのたとえをだそう。
 キミはこんな言葉を聞いたことがないだろうか?
 
「だってみんな持ってるよ?」という言葉である。
 
 これは小学生や中学生などが、親に物をねだるときに使う決まり文句のようなものではあるが、ここでいう「みんな」とは一体だれなのか、そもそも統計的なデータと照らし合わせてみて本当に「みんな」が持っているのだろうか、「みんな」が持っているからなんだというのか、というツッコミどころ満載な言葉でありながら意外に効果があるのである。
 なぜなら、逐一「みんな」がどの範囲に収まる人達なのか調べるのは面倒くさいし、統計的データを取るのも難しい上、「それをみんなと同じにすること」 が「どうして必要なのか」を導き出す位なら、お財布と相談してYESとNOで答えてしまった方が手っ取り早いからである。
 
 この言葉を聞いて、キミは微笑ましく感じたかもしれないが、今一度鏡で自分の顔を見返して頂きたい。
 
 これと同じ事をいい大人がしていないだろうか?
 
 いや、正しく言うならば、いい大人の多くがこの小学生、中学生レベルのことを未だに続けているのである。
 
「キミ、もう少し現実みた方がいいよ」「常識的にいって無理でしょ?」「一般的にはこうでしょ」「世間ではそうなんだよ」と、これに似たような言葉を若者や他人に投げかけた事があるのだとしたら本当に注意して欲しい。俺も時々やってしまう事があるが、本当に良くない癖である。
 そう、それは、「単にキミにとってそうだっただけで、常識だと思っていないか?」ということなのである。
 
 皆が常識に縛られていたら、未だに地球は平面なままかもしれないし、地球の周りを様々な天体が回っているという天動説な世界かも知れない。
 これはちょっと壮大になりすぎたかもしれないが、身近なところで言えば「何も言わずに努力している人が成功しているんだよ」だったり、「大きな肩書きを自分で名乗る奴は成功しないよ」だとか、「オウンドメディアで有名になるとか無理だよ」とか「デカいことやろうぜとか無理だしダサいよ」そういったものである。
 こうした常識や一般論とされるものは、大概「個人のバイアスがかかった一意見」に過ぎず、ツッコミどころ満載な上に、なんの裏付けも無いのである。出来ないなら証拠を出せ。データを出せ。
 
 いい大人ぶるな!
 
 そう、「だってみんな持ってるよ?」と小中学生が言うのと同じレベルなのである。
 まずは、自分の常識を疑うところから初めて、そして裏付けとなるデータを用意するというのがスマートな大人なのである。
 
 俺も、多分まだまだ出来てはいないのだが……年内までには体得しておこう。
 
 

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 さてと、色々と可燃性の高い上にまとまりの無い文章を投下してしまったような気もするが、俺が言いたいのは「固執するな。鏡を見ろ」という事である。これに関して自分が出来ているかどうか本当に怪しいものだが、少なくとも良くない物が口から飛び出そうになったり、自分が何かにとらわれていて幸せになれていないと感じたときは、「固執するな! 鏡を見ろ!」と高らかに宣言することにしているのである。
 
 また、俺は「KDPで1万部売る!」だったり「小説家になろうで書籍する!」だったり「ブログで最低月間40PVは越える!」だったりと無謀過ぎるナニサマ中二病発言をしている割には、何もしていないと確実に思われている人なのだが、他人からそれを馬鹿にされようと気にしていないのである。
 馬鹿にすること自体が非常に馬鹿げている事だと思ってやまない上に、俺がそれを出来ないという証拠を出された試しがないからである。
 そう、人生というものの締め切りは死んでしまうその瞬間以外にないのだから、どんな尊大なことを言ってしまってもいいじゃないか。結果は後から出せばいい。うるさい奴は黙らせてしまえ。
 
 人間みな中二病。
 
 そして、そんな中二病こそが、いつかはこの世界を面白くしてくれると信じて――
 
 キミも誇りを持って「メディアクリエイター」を名乗ればいいと思ってやまない。
 
 俺は中二病という肩書きを名乗り続けるけどな。
 
 そして、オッサンになりゆくものよ。
 
 そんな馬鹿者達をどうか、温かい目で見守って欲しいものである。
 
 無様に見えるのかもしれないが、それは誰もが通る道である。
 
 では、失敬。
 
 

 

必ず結果がでるブログ運営テクニック100 プロ・ブロガーが教える

必ず結果がでるブログ運営テクニック100 プロ・ブロガーが教える"俺メディア"の極意

 

 (メディアクリエイターもといブロガーになるなら多分この本オススメでっせ。基礎の基礎から意外に知らないテクニックまでと非常に濃ゆい本である。勉強になった! 景虎もこれを実践するよ!)

 
(『メディアクリエイター否定派おっさん』の記事を漁っていてスゴイ熱い物を見つけてしまった。俺もこんなカッコよく、熱いオッサンになりたいと思う。シロクマさん格好良すぎでっせ。俺はまだまだ青いなぁ。蒙古斑が残ってるよ……多分)

 

 
 

たったの百円でも不労働所得は増やすべきである!

 どうも。俺だ。景虎だ。

 少し前に積み上がる物こそが大切だというエントリを書いたのだが、ソシャゲ批判にばかり目がとまって肝心な所をキミは見逃していなかっただろうか?

 そこで、今回のエントリでは実際にそんな積み上がっていく物の中でも代表的な物としてあげられるであろう「不労働所得」の大切さについての話をしていこうと思う。

 不労働所得などと言うとキミが嫌な顔をしそうな気もするが、このエントリを読んでから、少しでもそのものに対する認識が変わってくれたなら俺は嬉しいと思う。

 

 ちなみに、積み上げる物~に関するエントリはこちらだ。

 まだ読んでいないキミはこの記事を読み終わってからでもいいから是非チェックしてくれたまえ。

 

www.10kgtr.net

 

 さて、それでは本題に入っていこうか?

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積み上げていける物にこそ価値があると知れ!

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今日は常日頃俺が考えていること、思っていることについて書いていこうと考えている。それがこの「積み上げていく物にこそ価値がある」である。

 恐らくキミはこの話に同意しかねる部分があるかもしれないし、全くもって共感出来ない気持ちでいるかもしれないが、まぁ、ひとまず聞きたまえよ。

 さて、それでは始めよう。「積み上げていける物にこそ価値がある」とはどのような意味なのかについて説明していこうと思う。

 

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鬱病になって初めてわかったこと

  どうも。俺だ。景虎だ。

 体は剣で出来ていると言うと、Fateの士郎の詠唱文句になるわけだが、果たしてキミの剣は錆びたり折れたりしていないだろうか? 単純明快に言うなれば、健康だろうか?
 俺自身、この体は剣である、体は武器である、体は資本であるとい観念がすっぽりと抜け落ちていたこともあってか、最近になってボキリといってしまったのである。
 大正、昭和の文豪もびっくりするほどゲボゲボと血を吐き始めて、ようやく病院に行き、ああもう死ぬのかなというところまで行くまで、全く思考の外だったのである。
 
 別に体が剣で出来ていなかろうと、体が己にとっての武器であることには変わりがないのに、俺は全くもって自分の体をどうでも良いと考えていた訳なのである。
 
 結果として、逆流性食道炎、肺炎、胃潰瘍、肝機能の低下でアンモニアだらけ、腱鞘炎、不眠症、鬱病などというとんでもない情況になってしまっていたのである。
 
 要するに過労がすべての元凶だということである。
 
 当然お医者さんからは「あんたね。このまま放っておいたら死ぬよ。本当に」と真顔で心配され、「いやぁ、それはちょっと困りますね」と頭をカリカリと掻きむしりながら答え、
「あんたさぁ! 困るじゃ無いんだよ! 死ぬよ本当に!」
 と無茶苦茶怒られる事になってしまったのである。
 そう、二十六歳のいい大人がである。困ったね。本当に。
 
 さてと、では、そんな俺が鬱病もとい色々な病気にかかるまでの顛末と、それによってわかった事について説明していくこととしよう。