性格とは一体どこからが病気なのだろうか?
どうも。俺だ。景虎だ。
今回は俺が最近疑問に思っていることについて、徒然なるままに書き連ねていきたいと思っている。その議題とはズバリ「性格やその人物が持っている思考というもののどこからが病気でどこからが正常なのだろうか?」というものである。
こんなことを考え始めてしまったのは、うつ病の新たな治療としてデイケアなるものに行き始めたことがきっかけなのだが、なんというか俺だけではなく、おそらくキミにとっても少なからず関係がありそうな話でもあるから、まぁ、話半分にでも聞いていただけるとありがたい。
それでは始めよう。性格とは一体どこからが病気と言えるのだろうか?
目次
そもそもデイケアとはなにか?
そもさんデイケアとはなんなのかというものが多くの人にとっての疑問だろう。これはうつ病やその他精神疾患を抱えた人物が社会へと復帰する上でのそのトレーニングをするための場であり、要するに精神的病人を寄せ集めた刑務所的アトモスフィアの漂う閉鎖空間のことを言う訳である。
そこがどれほどまでに欺瞞的善意に満ちた場所であるのかとか、体育会系過ぎて逆に精神がおかしくなりそうだとか、そういった類の不平不満はこの際言うつもりはない。それを言ってしまうと、単なる愚痴になってしまいそうだから、それはこの際置いておこう。
ただ、そのデイケアなるもので時々行われるメタ認知トレーニングだったり、治療という名目で行われる性格の矯正というものがなんというか、色々と複雑な心境にさせてくれるので、今回はそれだけにしぼって言及していくこととしよう。
メタ認知トレーニングとは何か?
また、よくわからない単語が、出てきてしまったから解説すると、このメタ認知トレーニングというものはいわゆる思考の歪みについて自分で認知して、そこを修正していくという精神的なトレーニングのことを言う。
つまりは、社会生活に再び復帰する上でのストレスを上手く回避する方法を学ぶということなのであるが、これが本当に難しいのである。
なぁに、自分の歪みというものを無差別的にとってしまうというのであれば、他愛はないのであろう。むしろ、自分の周りの人物は率先してそれを行なっているようなきらいすらあるのだから、俺もそれに習えば、何事もなく上手くやっていけるのであろう。
ただ、俺はどうしても考えずにはいられなかったのである。
一体どこからが治療するべき認知の歪みなのだろうかと。
病気を殺す上で自分をどこまで失えるかという話
例えば、対人恐怖症の人物がいたとしよう。本人はそれをどうにか治療したいと考えていたと仮定する。その為に色々な人と話すトレーニングや、認知の歪みを修正するというトレーニングをしていくとする。
その場合に、例えばオタク趣味というものがそもさん認知の歪みだと断定して、修正するということは必要なのだろうかということである。
当然、自分のクラスタと全く離れたところにいるであろう「歩く性病」と形容した方が良さそうなリア充人間に対して、「あいつらは『頭空っぽだから夢詰め込める』などと本気で考えているのだろうか? ゴミクズだな」などといった歪みきった認知を抱いているのであれば修正した方がいいのかもしれない。
無論、そういった自分とは全く違う価値観を持った人間のことを嘲るような思想は、メタ認知トレーニングでしっかりととってしまう必要があるのだろう。だがしかし、二次元の女性を愛することや、アニメを見ること、物語の世界を心から愛することといった部分にまで、その病性を認めて、治療と称して修正を加える必要が果たしてあるのだろうか?
俺の場合はうつ病なのではあるが、正直な話うつ病になる前から抱えてきた(具体的に言えば小一の夏頃から抱えてきた)生来的な歪み認識に至るまで治療と称してとっていく必要があるのだろうかということなのである。
それを徹底的にまで行った暁には、当然うつ病は治りそうな気がするものの、もはや俺は俺ではなく、俺の姿形をしているだけの、中身も味わいも全くない空っぽ聖人君子ということにはならないのだろうか?
いや、いや、勿論その方がJKにモテモテで「キャ~。景虎ちゃん大好き。頭なでて!」などと言い寄られまくるのであれば、俺は当然それを拒否しないだろうものの、そう言った俺が心から欲してやまないものを、路肩のドブにフルスイングで投げ捨て続けた引き換えに手に入れた「一向に誇るべきでない」性癖に対して、なぜだろうか、俺はそこまでして手に入れたのだから、何かしら利益を回収してからでないと勿体無いのではないかという狂気に満ちた次元へとたどり着いてしまっているのである。
全く別の人間になることが治療?
まぁ、俺のおかしな性格については、徹底的なまでに政府の予算をつぎ込んででも修正した方が良いのだろうと思ってやまないものの、キミに関してはそこのところどう思うだろうか?
キミが何かしらの精神的な病気にかかり、その治療の為には自分を捨てなくてはいけないとして、キミは今までの自分というものをすっぱり捨てきって、別の人間として人生を歩むことができるだろうか?
当然、俺の治療したいと願ってやまないのは、頭ののぼせであり、全く思考がまとまらなくなり、全身のダルさと、痛みからなにも出来なくなってしまうという症状の方であって、どうしようもないほどに社会不適合な俺の性格の方ではないと思ってしまうのである。
勿論、必要以上に他人に嫌われているのではないかと考えてしまう認知の歪みや、まだまだ良いものが俺には作れるはずなのだと言って中々新作を出せないでいるような尊大な羞恥心などというものは即刻捨ててしまうべきなのだろう。
だが、愛すべきダメ人間であるという部分について、俺が少なからず愛着を持っている自分の性格についてまで、その治療は及ぶべきなのだろうか?
俺にはよくわからないのだけれど、キミはどうだろうか?
全く別の人間になってしまうということに、生理的嫌悪感があったりはしないだろうか?
ひょっとするとこんな事を考えてしまうこと自体が、認知の歪みなのかもしれないが、それこそ大量のJKが俺の元へと押し寄せでもしない限りは、そういった行為は到底俺の受け入れられるものではなかったわけである。
さてと、これ以上長々と書いても仕方がないから、そろそろまとめへと入るとしよう。つまるところ、俺の言いたいのは、どこからが病気と言えるのか、その原因であると言えるのかというその一点に尽きるわけである。
ひょっとすると、やたらとJKに愛されることを求めている部分が原因なのかもしれないし、JKの脱ぎたて黒ストッキングをハスハスしたいなどと考えているということこそが、俺の症状の根幹なのかもしれない。
ただ、それを捨てろと言われてしまうと、どうしようもなく複雑な心境になるわけである。「その根拠は? JKの黒ストッキングに固執するとなぜ病気になるのか教えてくれたまえよ!」とがなってやまないのが俺なのである。
キミだって、少なからず無い方が良いにもかかわらず、どうしようもなく自分の形として定着してしまったそんな歪みの一つや二つはあるだろう。
ただ、それが精神的な病気の治療の際、捨てることを求められたとして、キミはすんなりと受け入れられるだろうか?
そもさん、精神的な病気とは一体どこからが病気だといえるのだろうか?
非常に、難しい問題ではあるのだが、ただ一つだけ確実にいえることがあるわけである。
治療をすると消えてしまう自己、つまり俺は、精神的な病原菌だったということが明確に証明されてしまったということである。
ああ、がっかりだ。これではJKにモテるのは今世ではあきらめた方が良さそうなものだ。
涙をぬぐいながらも、今日も俺は病原菌として生きていく。
そして、同様に生きているキミに対しても、このブログ記事を通じて感染を試みん。いつか、この世界が精神的病原菌で溢れますようにと。
不吉な願いだけを胸に秘めて。
では、失敬。