肩書きや常識に固執するな!【メディアクリエイター否定派おっさんへ向けて】
どうも。俺だ。景虎だ。
どうやら、最近ブロガー達の新年会とやらが開催され、そこで「メディアクリエイター」という肩書きの是非についてが話題に上がっていたらしい。また、オッサンブロガー達が、「若者よ。夢を見過ぎるな常識を知れ」などと息巻いていたらしい。
そもさん「なぜ俺はそんな楽しそうな会に呼ばれないのか?」といった痛切な疑問もあるものの、俺自身もその是非について色々と思うところがあり、あれこれ書かなくてもいいことを書いてみたくなったのである。
だからこそ、今回はそんな「メディアクリエイター」という肩書きについてと、そもそもの肩書きや常識という物について、はたまた、これを考えるきっかけとなった記事について、キミが嫌だといっても書いてみたいと思うのである。
いいだろうか? それでは、今日も言葉を武器にザクザクと切り込んでいくとしよう。
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そもそも他人の肩書きにこだわりだしたらオッサンである
さてと、キミの中にはあれこれと言い返したい気持ちが渦巻いているだろうが、きっぱり言い切っておくと、他人の肩書きなんてものにこだわりだしたら、そもそもオッサンなのである。
肩書き――それは若者にとってみれば、己のクラスタをはっきりさせてより多くの人と繋がるためのコミュニケーションツールに過ぎず、「多くの人がそう名乗っているし、何だか格好良さそうだから」以外のなにでもないことが多い。
いわば、Twitterのハッシュタグやプロフィールに載せるオマケのようなものな訳である。
わらさー団に加入するのがただのファッションでしかなく、政治信条などがあってのことでないように、そういった大それた肩書きを名乗る事にも特に深い意味があってついている訳ではないと俺は思いたい。
(「いや、それが仮にカッコツケであったからと言って、何が悪いのだろう? ダサいと言っているおっさんどもはさぞかしカッコイイ生き方をしているんだろうな? 若者から憧れられる生き方をしているんだろうな? そうだよな? ええ?」と俺はすごんでみる。)
しかし、オッサンにとっての肩書きは、ある種の社会的権威であったり、猿山の王なのか、それとも取り巻きなのか、ヒエラルキーにすら混ざれない底辺なのかといった己のステータスを示すものになっている気がしてならない。
要するに猿である。
人間ではなく猿になっているのである。
「お前、ボスザルじゃないのにボスザル名乗るのとかダサクね?」とかそういう事なのである。
故に、肩書きや、己の半生をもって作り上げた大愚なる『常識』といったものに囚われて、自縄自縛の情況に自ら望んで陥っていっているのである。別に誰がどんな肩書きを名乗ろうと、キミ自身に不都合がないのにも関わらずである。
少なくとも俺はそんな気がしてならない。
半分おっさんに足をツッコみかけているから、俺も気を付けていかねばならないことではあるが、そんな些末なことに囚われていて、『本当にその人達は人生が楽しいのだろうか?』と俺は心底思ってやまないのである。
肩書きにこだわることは怖いことである
肩書きという物が時に邪魔になるというのは、俺が常日頃思うことではあるが、その一方で「他人から与えられた肩書きはいくらでも欲しい」と思っている自分がいるのである。
キミだってそうだろう。
他の人から「スゴイ級ライターだ!」「アルファブロガーだ!」「足が臭いけど世界一素晴らしい父親だ」などと褒められたら嫌な気はしないだろう。しかし、罠はそこに潜んでいるのである。
一つ目の怖さはそこだ。
そういった承認欲求が行きすぎると、己の肩書きや、また他人と自分との肩書きとの差が気になって気になって仕方がなくなってしまうのである。それ故に自分に対して異様な程ハードルの高い肩書きを付けたり、「いや、その肩書きは不格好でしょ」なとといった嫌みを他人にぶつけるという変なことになってしまうわけである。
前者はまだ可愛げがあるが、後者は本当にめんどくさい奴である。
肩書きなどというものは自分で付ければ大概どれも不格好なものであるが、そこのところが全く判断が付かなくなってしまう訳なのである。
コワイ!
これは本当に恐ろしいことではあるが、人間誰もが一度は通る道なので、さっさと通過してしまってほしい。
トンネルは意外なほど短いのでくぐり抜けてしまおう。
(「もし、そうでないのなら、自分も何も出来ていないくせに、他人の肩書きを笑っていじるクズである」と俺は再びすごんでみる)
そして、二つ目の怖さは、自分の肩書きに固執するあまりに、自分のやることが縛られてしまうということである。
特にこれは日本人によくある民族的性質で、それ故に多くの職人が生れているといったメリットもあったりはするのではあるが、どんなことでも行きすぎれば毒になるのである。
どういった毒があるのか? それは簡単である。
肩書きにそった行動を取らねばならぬと思ってしまうところである。
例えば、小説家なら小説を書かねばならないし、音楽家なら音楽を作らなければならず、イラストレーターであればイラストを描かなくてはならず、他のことをしているのはちょっとどこかおかしいんじゃないかという話である。
また、何もしていないのにその肩書きを名乗っているのは本当に正しいのかという所まで被害は及ぶだろう。
かの偉大なる小説家スティーブン・キングが、作家仲間達とロックバンドを組んでいるというのは有名な話ではあるが、ホワイジャパニーズピーポーと厚切りジェイソンが言い始めかねないほどに、日本人はこうした肩書きをやっていなければ名乗っちゃいけない、名乗るからにはやってなきゃいけないというバイアスに縛られてしまっているのである。
小説家が音楽を作ってみてもいいだろうし、普段サラリーマンをやっていて趣味がブログな人が絵を描いてみるのも別にいいことだろう。
何をやっても名乗っても問題がないはずなのだが、ブロガーを名乗るとブログを書かなくてはいけないような気がするし、小説家と書くと小説を書かなくてはいけないような気がしてしまう。
そしてライターと名乗ると仕事の原稿をそろそろ真面目に書いてお金を稼がないと死んでしまうような気がしてしまうのである。
逆に何もしていないなら何も名乗っては行けないという風になってしまうのである。
一つだけは比較的真実が混じっていたような気もするが、要するに肩書きによって、自分のチャンスの目を潰してしまうからこそ、肩書きという物に固執するのは恐ろしいということなのである。
そう、考えると若者がメディアクリエイターという肩書きを好んで使うのもある意味納得できるような気がするのである。
絵も描きたいし、小説も書きたいし、音楽も作りたいし、ブログも運営してみたい。恋愛もしてみたいし、友達も沢山欲しい。そして何よりクリエイターとして一流だと認められたい。
その為に色々なことをやってみたい。非常に良いことなのではないだろうか?
これは当然若者だけに限らないことではないだろうか?
まかり間違っても、「俺はブログしか書いてはいけないんだ」と訳のわからぬバイアスを自分にかけている人や、「何もしていないくせにメディアクリエイター名乗るとか無様ー」と笑っている人よりかは幾分立派だと俺は思うのである。
(まぁ、目標や名乗った肩書きがデカければデカいほど、越えるのは難しいというのだけは本当だろう)
さて、ここまで語れば肩書きにこだわることの怖さがわかっていただけたと思う。そして、他人の肩書きを馬鹿にする事がいかに浅ましいことかもわかっていただけたと思う。
今日からキミは何でもやっていい人だ。
何もやっていない人であってもいい。
職業はライターや小説家やブロガーやサラリーマンだったりするかもしれないが、キミ自身はそういった自分が自分につけたタグに縛られずに行動していいのだ。何でもやっていい人である事を忘れないで欲しい。
そして、必ずしも何かをやらなくてはいけない訳ではない。
何もしていないと言われることを怖れて鬱病になるような奴になってはいけない!(俺の事である)
要するに、キミもハイパーメディアクリエイターなのである。
だからこそ、誇り高く叫べ。そして己が行動で、天を揺らし、民衆を黙らせろ。
最後にそれが出来るのは「やった奴」だけになるのだから。
ゆっくりでもいいのだ。他人に馬鹿にされようと気にしてはいけない。
常識にとらわれることは心底馬鹿らしい
次は常識にとらわれることの馬鹿らしさについて書いていこう。
「常識にとらわれることはよくない」「常識にとらわれるな」などと書くと、意識高い系の標語のように思えてしまうが、俺はこれが一番大切なことだと思っているのである。
なぜなら、キミが「常識」「世間」「一般」などといった言葉を使って話したり、書いたりしている「価値観」は、ほとんどの場合個人的なバイアスがかかっているからである。
わかりやすいように一つのたとえをだそう。
キミはこんな言葉を聞いたことがないだろうか?
「だってみんな持ってるよ?」という言葉である。
これは小学生や中学生などが、親に物をねだるときに使う決まり文句のようなものではあるが、ここでいう「みんな」とは一体だれなのか、そもそも統計的なデータと照らし合わせてみて本当に「みんな」が持っているのだろうか、「みんな」が持っているからなんだというのか、というツッコミどころ満載な言葉でありながら意外に効果があるのである。
なぜなら、逐一「みんな」がどの範囲に収まる人達なのか調べるのは面倒くさいし、統計的データを取るのも難しい上、「それをみんなと同じにすること」 が「どうして必要なのか」を導き出す位なら、お財布と相談してYESとNOで答えてしまった方が手っ取り早いからである。
この言葉を聞いて、キミは微笑ましく感じたかもしれないが、今一度鏡で自分の顔を見返して頂きたい。
これと同じ事をいい大人がしていないだろうか?
いや、正しく言うならば、いい大人の多くがこの小学生、中学生レベルのことを未だに続けているのである。
「キミ、もう少し現実みた方がいいよ」「常識的にいって無理でしょ?」「一般的にはこうでしょ」「世間ではそうなんだよ」と、これに似たような言葉を若者や他人に投げかけた事があるのだとしたら本当に注意して欲しい。俺も時々やってしまう事があるが、本当に良くない癖である。
そう、それは、「単にキミにとってそうだっただけで、常識だと思っていないか?」ということなのである。
皆が常識に縛られていたら、未だに地球は平面なままかもしれないし、地球の周りを様々な天体が回っているという天動説な世界かも知れない。
これはちょっと壮大になりすぎたかもしれないが、身近なところで言えば「何も言わずに努力している人が成功しているんだよ」だったり、「大きな肩書きを自分で名乗る奴は成功しないよ」だとか、「オウンドメディアで有名になるとか無理だよ」とか「デカいことやろうぜとか無理だしダサいよ」そういったものである。
こうした常識や一般論とされるものは、大概「個人のバイアスがかかった一意見」に過ぎず、ツッコミどころ満載な上に、なんの裏付けも無いのである。出来ないなら証拠を出せ。データを出せ。
いい大人ぶるな!
そう、「だってみんな持ってるよ?」と小中学生が言うのと同じレベルなのである。
まずは、自分の常識を疑うところから初めて、そして裏付けとなるデータを用意するというのがスマートな大人なのである。
俺も、多分まだまだ出来てはいないのだが……年内までには体得しておこう。
さてと、色々と可燃性の高い上にまとまりの無い文章を投下してしまったような気もするが、俺が言いたいのは「固執するな。鏡を見ろ」という事である。これに関して自分が出来ているかどうか本当に怪しいものだが、少なくとも良くない物が口から飛び出そうになったり、自分が何かにとらわれていて幸せになれていないと感じたときは、「固執するな! 鏡を見ろ!」と高らかに宣言することにしているのである。
また、俺は「KDPで1万部売る!」だったり「小説家になろうで書籍する!」だったり「ブログで最低月間40PVは越える!」だったりと無謀過ぎるナニサマ中二病発言をしている割には、何もしていないと確実に思われている人なのだが、他人からそれを馬鹿にされようと気にしていないのである。
馬鹿にすること自体が非常に馬鹿げている事だと思ってやまない上に、俺がそれを出来ないという証拠を出された試しがないからである。
そう、人生というものの締め切りは死んでしまうその瞬間以外にないのだから、どんな尊大なことを言ってしまってもいいじゃないか。結果は後から出せばいい。うるさい奴は黙らせてしまえ。
人間みな中二病。
そして、そんな中二病こそが、いつかはこの世界を面白くしてくれると信じて――
キミも誇りを持って「メディアクリエイター」を名乗ればいいと思ってやまない。
俺は中二病という肩書きを名乗り続けるけどな。
そして、オッサンになりゆくものよ。
そんな馬鹿者達をどうか、温かい目で見守って欲しいものである。
無様に見えるのかもしれないが、それは誰もが通る道である。
では、失敬。
必ず結果がでるブログ運営テクニック100 プロ・ブロガーが教える"俺メディア"の極意
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(メディアクリエイターもといブロガーになるなら多分この本オススメでっせ。基礎の基礎から意外に知らないテクニックまでと非常に濃ゆい本である。勉強になった! 景虎もこれを実践するよ!)
(『メディアクリエイター否定派おっさん』の記事を漁っていてスゴイ熱い物を見つけてしまった。俺もこんなカッコよく、熱いオッサンになりたいと思う。シロクマさん格好良すぎでっせ。俺はまだまだ青いなぁ。蒙古斑が残ってるよ……多分)
中二病のワシの心を打ったエントリでした。() / 他62コメント https://t.co/0ijM4LDpw4 “若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ - シロクマの屑籠” https://t.co/jk0WZv3Kcu
— 天王丸景虎🐯@メタバース虎人間 (@10kgtr) 2016年1月19日
ブログのオフとかあるなら俺も参加したかった。(アンテナ狭い)
— 天王丸景虎🐯@メタバース虎人間 (@10kgtr) 2016年1月19日