景虎日記

無駄な考え、無駄なあがき、無駄な偏愛と偏見による電子書籍とWeb小説、その他もろもろの記述。

もしも紙の本が世界から消えたなら

 どうも。俺だ。景虎だ。

「なんだか猫が消えてなくなってしまいそうな表題だな」とキミは思ったかもしれないが、今日消してみるのは猫ではなく紙の本である。

 もしもキミが「紙の本よりやっぱり猫を消そうよ」と思うのであれば、「世界から猫が消えたなら」を読んで思いとどまってもらいたいところだ。

 

世界から猫が消えたなら

世界から猫が消えたなら

 

 さて、猫は箱の中にしまっておくとして、今日お話するのは、「もしも世界中から紙の本が消えてしまったらどうなるのか」という空想の話である。

 何故そんな空想のお話をするのかというと、前回お話した『「紙派だから」と言い出すキミは電子書籍をわかっていない』の記事で、キミが誤解していないか少しだけ心配になったからである。

 そう、あの記事を読んで電子書籍を利用し始めた挙句「電子書籍があれば紙の本なんていらないや」だなんてキミには思ってほしくない。あくまでどちらもあるべきだという話をしたつもりなのだが、もしもキミがあの記事に触発されて、電子書籍だけに傾いていくのだとしたら、俺は――。

 だからこそ、今日は「何故、電子書籍を持っていても紙の本を処分するべきでないか」の話をしようと思う。

   

世界から紙の本が消えたなら

 キミは華氏451度という小説を読んだことがあるだろうか?

 そう、レイ・ブラッドベリによって書かれたあのディストピア小説のことである。

 ひょっとするとキミはまだ読んだことがないかもしれないから、まずはこの本について、かいつまんで説明しよう。

 この華氏451度という作品の世界では「本」が禁じられている。焚書官である主人公モンターグは禁制品である本を見つけ、燃やしていく。人々は与えられた娯楽だけを当たり前のように享受し、深く思考したり、知識を蓄積する事無く生きているというわけである。つまり、紙の本を燃やす焚書が当たり前となった世界を描いたディストピアSF小説である。

華氏451度 ハヤカワ文庫SF

華氏451度 ハヤカワ文庫SF

 

  さてそこで質問だ。

 キミは紙の本と、電子書籍、どちらを焚書するのが果たして楽だと思うだろうか?

 

 デジタルデータは一度出回ったら消せないから紙の本? 

 それとも紙の本は見つけて燃やすのが大変だから電子書籍?

 

 俺は正直、電子書籍の方が簡単に世界から消してしまえるのではないかと思っている。勿論それには、個人が所有するすべてのデバイスと、ネットワークをすべて監視下に治めたならという条件がつくが、少なくともその両方の条件が揃った時には、電子書籍はいとも簡単に焚書出来てしまうのではないだろうか?

 華氏451度のように、世界中から紙の本を探しだして消すのは至難の業だ。

 だが、少なくともネットにつながっている電子書籍というものは、検索と監視によって容易に焚書や検閲を行うことが出来てしまうだろう。

 

 無論賢いキミなら「それならネットに繋がなきゃ良いんじゃない?」と気づいたはずだ。だがしかし、「いま集合的無意識を、」の「ぼくの、マシン」の世界のように、ネットに繋がっていないPCというものがあってはならない世界になったとしたら、スタンドアロンにすれば良いでは通らないだろう!

いま集合的無意識を、

いま集合的無意識を、

 

 もしも、紙の本が世界から消えたなら、そこにはいつでも自由に本を消すことが出来るディストピアの世界が待っている。キミが持っていたその本は、明日には消えているかもしれない。確かに隠し持っていたはずの電子書籍が世界中のすべての人の手から消えて、人々は深く考えることも、知識を蓄えることもなく、与えられる娯楽だけを楽しむ世界になってしまうのかもしれない。

 そんな世界で、作家たちはTorを使って、本を送り出すのだろうか?

 ファイル共有ソフトが高度な発展を遂げており、かつては作家たちを苦しめたはずのものが逆に、作家を救うことになるのだろうか? 技術的にあまり詳しくないのだが、それもいずれは検閲されてしまうのではないだろうか?

 

 さて、そろそろ、これを読んでいるキミは気づいただろう。

 「お前、SF小説の読み過ぎだよ」と。

 

SF読みの脳に関して話すつもりはない

 俺はSF小説が好きである。だが、世界をそんな本の中の世界と同列に語るのが正しくないことくらいしっかりわかっている。

 この記事でSF読みの脳の正しさについて話すつもりはないし、必ずしも電子書籍が現段階で検閲や焚書がし易いなどと決めつけてかかるつもりもない。

 むしろ、海外在住のイラン人作家たちが、政府の検閲を避けるために電子書籍をフル活用しているという事例もあることから、現段階ではデジタルデータの方が検閲はしづらいものだというのが現実なのだろう。

hon.jp

 だがしかし、俺自身はどちらか片方に極端に傾きすぎるのはどうにも危険だと思ってしまうのである。キミには恐らく、政府による焚書や検閲などと言うものが、今現在の日本においては荒唐無稽のSF小説のように感じられてしまうのかもしれないが、それは果たして夢物語で終わるのだろうか?

 デジタル化された知識の産物が、全世界のブラックアウトとともに無に帰してしまう可能性もあるだろう。我々が多様性によってあらゆるリスクから生き延びてきたように、小説にも多様性が必要なのではないだろうか?

 紙は物語を自分のためだけの所有することであると、先日の記事で言及したが、そういった多様性が失われてしまえば、ちょっとした弾みで、世界から物語はすべて消えてしまうのではないだろうか?

 

焚書を行うのは誰なのか?

 SF的妄想もこのくらいにして、次はもう少し現実的にありそうな事を考えていきたいと思う。その為には、一つ、前提条件として考えなくてはいけないことがあるだろう。それは、具体的に誰が焚書を行うのだろうかという問題だ。

 政府が行う――というのはどうにもSF小説的だ。 勿論一部の世界では既に引き起こっていることではあるのだが。

 では、誰が一番本を燃やしうるか。我々の本の世界をディストピアにするのは果たしてだれなのか? 

 それは、恐らくAmazonと、そしてありとあらゆるプラットフォームによって、引き起こされる可能性が最も高いのではないかと俺は考える。

 

Amazonによるディストピア

 今、電子書籍業界は極端なほどまでにAmazonが牛耳っていると俺は感じている。正確なデータはないけれど、恐らくそうだろう。そして、電子書籍の普及が進むにつれて、その性質はより強まっていくことだろう。そして作家自身もそれに依存していくようになっていくかもしれない。これは実に良くない。

 俺はベソスを善良な人間だとは信じていないし、全てをAmazonが牛耳ったその日には、恐らく検閲か、クリエイターのダンピングが起こるのではないかと懸念している。 

builder.japan.zdnet.com

プラットフォームによるディストピア

  これに関してはAmazonだけで本を売らなければ、電子書籍だけの世界でも回避できるとキミは考えるだろう。今はPixivのBoothやらSTORES.jp、はたまたパブーなどと沢山のプラットフォームがあるから、分散しておくというのがいいのだろうと。

 これは確かに今現在であれば、ひどく懸命な判断だ。

 しかし、それもやはりプラットフォームの都合によって、ある日突然本が消えてしまうという可能性が残ってしまう。無論、キミは「それなら個人でネットで販売すれば良いんじゃない? 自サイトで」と考えるはずだ。

 しかしこれも、GoogleやYahoo並びにTwitterやFacebookと言ったプラットフォームに強く依存していると言わざるを得ない。差別的なコンテンツを載せたところで、今はGoogle八部になることなどは無いが、これから先は本当にどうなるかわからない。

 Twitterでロリ絵師が消されていったような事が、他でも起こるかもしれない。それは基準がどこまで下がるかが曖昧で、「にょ」と書いたら、女性を蔑視しているとして闇に葬られてしまうかもしれない。でじこ好きはネットから消されてしまうかもしれない。せつなすぎるにょ。

 あり得ない話だとは思うが、プロバイダーによって弾かれてしまう未来も訪れるかもしれない。そして、電子書籍は隠し持つには不便な面が大きい。少なくとも紙の本であれば、キミさえしっかりと口をつぐんでいれば、一生そこに残り続けるだろう。

 ユダヤ人を匿うドイツ人のように、どんなことがあろうと口をつぐんでいれば。

 

絶歌

絶歌

 

 (こんな本も消されずに残り続けるんだと思う)

 

まとめ

 キミはこれらを読んですべて俺の妄想だと断じるかもしれないが、少なくとも、紙の本が消えた世界では、ちょっとした弾みで、人類の英知や遺産がすべて消えてしまうということが起こりえる。

 デジタルの世界はそれが永遠に続くように思えて仕方がないが、実のところ「電気とネットというモノが延々と続く限り」という前提条件の上になりたっている。また、Amazonにある電子書籍は「Amazonの良心が永遠につづく限り」という前提の上にある。

 もしも、紙の本があり続け、電子書籍があり続けるならば、起こりうるリスクは半分で済むのではないだろうか?

 その為にも、あらゆる多様性を許容することが出来る世界であるべきなのではないだろうか? 少なくとも俺自身はそうであった方がいいと思うのだが……。

 

 さて、色々長々と話しては来たが、俺自身もこれらのことは、俺の脳みそから漏れだした妄想として終わるのであろうということは重々承知している。

 検閲や焚書などこれからの百年で一度も起こらないかもしれないし、電気もネットももしかしたら半永久的に供給され続けるのかもしれない。不自由なネットの世界というものもまた、キミたちが必死に守り続ける限りは、空想の産物にすぎないだろう。

 無駄な考え、無駄な杞憂である。

 そう、きっと俺の杞憂なのだろう。

 

 キミも考えてみて欲しい。

 もしも紙の本が世界から消えたなら。

 

 では、失敬。