景虎日記

無駄な考え、無駄なあがき、無駄な偏愛と偏見による電子書籍とWeb小説、その他もろもろの記述。

「9月1日の図書館」に行く前にキミが気づくべき事

 どうも。俺だ。景虎だ。

 「9月1日の図書館」の話は情報通のキミなら当然知っているとは思うが、もし知らないのであれば下の記事を見てもらえれば大体事情はわかるかと思う。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 そしてその発端となったのがこのツイートである。

 

 

 「学校行きたくなかったら図書館行けよ」のこのツイートは俺とっても、ものすごく感慨深いものがあったし、内容自体にも、俺はおおむね同意している。

 しかし、もしも、キミがこのツイートを見て、辛くて図書館に行こうと本当に考えているのだとしたら、その前に言っておかなくではならないことがある。

  なぜなら、キミはずっと図書館に引きこもっているわけにもいかないし、いつかは現実に引き戻されるからだ。辛い辛いと逃げようとしても、向こうから追いかけてくるわけである。お節介も良いところだが、きっと逃げ切れやしない。

 いつかは捕まって、やっかいな現実の中に押し込められてしまうわけである。

 だから、こそ、そんな辛いと感じるキミには、言っておかなければならない。

 そう、大体三つほど。

 

1.立派な人間などこの世に一人もいない

 もしも、キミが学教の教師やクラスメイトと上手くやれていないなら、この言葉を繰り返し唱えて欲しい。「立派な人間などこの世には一人もいない」と。

 俺は小学校、中学校とかなり酷いイジメを受けていたと思うし、正直担任の教師も「その位でくよくよするな」なんて言ってしまう体育会系を地で行く人だったから本当に救いが無かった。

 毎日毎日、その事で死にたいなんて考えたものだけれど、俺はその度にこの言葉を繰り返すようにしていた。「立派な人間などこの世の中に一人もいない」と。

 人を虐めるけれど頭の良いヤツもいて、バカだけど人なつっこい奴もいて、人と上手くやっていけないけれど誰よりも物事を考えている奴もいる。皆どこかしらに欠点があって立派じゃない人間なんだ。

 だからこそ、キミが上手くやれていない奴らのことで、どれだけ苦しんでいようと、キミはソイツらを許してやるべきだ。立派な人間などこの世には一人もいないのだから、人のことを虐める奴はいるし、からかう奴もいる。

 それは大人になってもずっと続く悪夢のような事実だ。

 そして、当然キミも立派じゃ無い。

 だから、命をかけて戦おうだとか、潔く死のうだとか、そんな物語の中にいるような立派な人間のやることをしてはいけない。

 俺は立派な人間じゃ無いから、無様に逃げてもいい。

 俺は立派な人間じゃ無いから、全て完璧に出来なくてもいい。

 俺は立派な人間じゃ無いから、惨めでもかっこ悪くても生きていていい。

 そう、キミは周りの酷い奴らを許したのと同様に、自分を許してもいい。立派に生きられない。情けなさ過ぎて死んじゃいたい。心の奥底がずーんと重くて辛くてどうしようもない自分を許してもいい。

 そして、周りに人間も皆そうだと思うと少しだけ気持ちが楽になるだろう。少なくとも俺はそうだった。「立派な人間などこの世には一人もいない」だからこそ、自分と周りの全ての人間と自分を許そう。

 そうやって生き続ける事が出来るならば、きっといつかは誰かがキミのことを立派だと言うだろう。

 2.いつ如何なる時でも死ぬ必要は無い。

 もし、キミが大学とか高校とかをドロップアウトしていたとしても、それも別に死ぬことは無い。人と同じ道を歩めていなかったとしても死ぬことは無い。もし、そうなりそうでも死ぬ必要なんてどこにもない。

 俺自身、学校から逃げ出してきているわけだけれど、今もこうして生活している。月に25万の安い稼ぎではあるけれど、こうして生きている。

 締め切りぶっちぎって、「あー人生の終わりだ!」などと思っても、本当に死んでしまうまで、人生の終わりなんてこない。学校の奴らと上手くやっていけない程度で、勉強が出来ない程度で、人生なんて終ったりしない。

「でも、もしかしたらこのままだと生活できないかもしれない。死ぬしか無い」って本気で考えているのだとしたら、一応日本ならそう言う人も救ってくれるようになっている。

 生活保護、などというとまじめに働いている人は非常にイヤな顔をするだろうが、俺はこれもありだと思っている。

 むしろ俺はこの「生活保護」という言葉の「保護」の部分が非常に嫌いで、早々に「生活保険」と言い換えるべきだと思っているくらいだ。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。

 さて、もしキミがやむにやまれず、生活出来ないくらい、仕事を探すのも、働くのも困難なくらいお金がなくて死ぬしか無いと考えている、もしくは、このままだとそう言う人生しか残されていないと感じたならば死ぬ必要は無い。

 

 この「生活保険」を一時的に利用することが出来るからだ。


 中にはその制度を利用すること自体を非難するような輩もいるが気にしなくて良い。実際問題俺自身はその制度を今のところは利用したことが無いが、とある知り合いが生活保護を受けていたと知っている。それも一年ほど。
 周りの人はそれを内心馬鹿にしている人の方が多かったし、「アイツはまじめに働かずに飯を食っている。許すまじ」などと言う人も結構いたらしいが、現在彼は年商ウン億円のリサイクル業の社長として、まじめに働いている。

「死ぬしか無い」って散々言っていた奴が、今では俺の稼ぎが少ないことをバカにまでする始末だ。やれやれ、社長ってそんなに偉いのかね?

 俺が言いたいのは、こういう制度は困ったときに利用して、困ってないときはその分返せば良いという事だ。

 だから、まかり間違っても、金が無いから死ぬしかない。

 生活できない死ぬしか無い。

 このままだと人生破滅だから死ぬしか無い。

 などと馬鹿な勘違いをしたまま死んでしまうのだけは、避けた方が良い。キミが他の人のように上手く言っていないなら、逆に他の人には無いチャンスだってあるかもしれない。

 もし何かが上手くいっていなくても、それは別にキミだけが悪いわけではないし(若干運が悪いとは言いたくなるが)キミが行った何らかの行為が結果としてそうなっている訳では必ずしもないのだから、死ぬ必要なんてこれっぽっちもない。

 コケたら立ち上がろう。寝転び続けていてもきっとつまらないだろうし。

 

3.先生という名の人などいない。

 そう、俺にとって先生と呼べる人は学校にはいなかったのである。これは早々に気がついていた。教師という肩書きの人はいたが、その人は俺にとっての先生では無かった。

 そもそも、俺は小学校高学年になるまではかなり大きな勘違いをしていたのだが、先生というものは見いだすものであって、決して肩書きでも、実在するものでも無かったのである。

 もし、「いやそんなことは無い学校の担任の先生は本当に素晴らしい人だった」とキミが豪語するのであれば、それはキミがその担任教師の中に先生を見いだしていたからに過ぎない。

 先生、という肩書きが付く人間がすべて先生だとは限らない。

 先生、という肩書きがつく人間がすべて立派な人だとは限らない。

 学校の先生は必ずしも素晴らしい人では無い。学校のシステムだってそうだろう。「あんな退屈なものを『役に立つんだ』って言っている人なんてろくでもない」ってキミは考えているのかもしれない。俺もそれにおおむね同意する。

 そもそもこれは、学校の教師で無く、大人全般に当てはまることだろう。

 「大人」「社会人」という言葉があるが、俺はこれを欺瞞だと思っている。人間というものはそもそも「大人だ」「子どもだ」「社会人だ」「ニートだ」などとスティグマを張り合って遊んでいる知的レベルの高い猿であり、そこには「子ども」「大人」という区別も本来は無い。

 勿論生物的な個体としては「十分成人だ」「まだ未発達な子どもだ」と区別することが出来るだろうが、こと精神に関しては本当にそうなのだろうか?

 有り体に言えばずっと子どものままなのだ。

「俺は責任を持っているから大人だ」と自らを大きく見せている子供なのだ。

 そんな子供がキミの教師をやっていて、どこかの偉い社長をやっていて、26歳にもなるのに下らないブログ記事を書いていて、そしてどこかの誰かが世界を変えている。

 その全てが子供のままなのだろう。しかし、それでも世界はこうして回っているのだ。

 つまり、キミの本当の先生は、必ずしも「教師」であったり「大人」であったりするわけでは無い。皆が皆子供のままの世界で、そんな肩書きを当てにしていたら、キミにとっての本当の先生なんて見つかりっこないだろう。

 

 キミにとっての先生は、キミよりずっと年下の子供かもしれない。

 キミにとっての先生は、ネットの世界にいるのかもしれない。

 キミにとっての先生は、ずっと大昔に死んでいて本の中にしかいないかもしれない。

 

 だから、こそキミは「死にたい」なんて考えるよりも先に、本気で自分の人生における先生が見つかるように努力しなくてはいけない。

 本来教育とは、キミの人生の先生に出会うための手助けであるはずなのだが、最近では必ずしもそうではないから、キミはキミ自身の先生をそれこそ命をかけて見つけなくてはいけない。

 その為に、色々な事に興味を持ち、色々な事を勉強してみるといい。人は勉強と呼ばないものであったとしても、それはキミにとっての勉強である。

 それはきっと本当の先生を見つける為の道しるべになるはずなのだから。

 なぜそこまでして、先生を見つけなくてはいけないのか、ひょっとするとキミはわからないかもしれないが、答えは簡単だ。

 その先生こそが、キミの生きる理由を教えてくれるからだ。

 もし、それがわからないまま死ぬのなら、キミの人生は本当に悲惨だ。

 今、死んでしまうということは、キミの人生には何の意味も無かったというのと同義だ。そんなことで良いのだろうか?

 いいはずが無い。

 もしも、キミが本当に心の底から尊敬できる先生を見つけることが出来たのなら、キミの心から死にたいなんていう気持ちは消えているだろう。

 俺は、この先生に認められたい。この先生のような人間になりたい。俺の人生全てをかけても届かないかもしれないけれど、それでもいい。これが俺の人生の意味だ。

 それならば、キミの周りの大人や親や、その他大勢の下らない人達が、キミに何をしようと、何を言おうと、キミの人生は一切揺らぐことが無い。

 いじめられていようと、馬鹿にされようと、何かが上手く行かなかろうと関係ない。

 そこから、キミの命をかけた勝負が始まるといっていい。それほど多くの時間は残されてはいないけれど、生き続けていれば少なくとも足らないと言うことはないだろう。

 必死に勉強しよう。キミがするべき本当の勉強をするために。

 死ぬな。下らないことで死ぬよりもキミにはやるべき事があるのだから。

 キミの人生の先生を見つける為に、命がけで勉強をしよう。

 

 そして、そんな先生は、図書館の本の中にいることもあるから、時々学びに行くのは良いだろう。

 キミの先生が学校にいないと気づいたら、世界の果てまで探しに出かけよう。

 

 絶望するな。では、失敬。

 

 

津軽 (新潮文庫)

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