景虎日記

無駄な考え、無駄なあがき、無駄な偏愛と偏見による電子書籍とWeb小説、その他もろもろの記述。

ネットで知り合った人は友達に値するか否か?

http://www.flickr.com/photos/63669472@N00/2235294862

photo by eekim

 どうも。俺だ。景虎だ。

 今日は長々と文章を垂れ流すのをやめて、一つの問題提議をおおよそ3000字位で書いてみる予定でいる。これを読んでいるキミがもし、「やたらと長い文章を読んでいないと精神が不安定になる類の病」に侵されているのだとしたら、これを読むことはオススメしないが、もしそうでないのだとしたらしばし付き合ってほしい。

 おそらくキミは、俺のように生身の人間と話したことがあまりない社会不適合者ではないとは思うけれど……。

 

ネットで知り合った人は友達に値するか否か?

 今日話したいのはずばり、「ネットで作り上げられた関係性が現実のものに劣るのか?」という話である。

 俺自身リアルでの関係性というものをほんの少しも持ち合わせていないこともあってか、これは今俺の中でものすごく大きな悩みの種になっているのである。それほど深刻に思い悩んでいるわけではないが、時折外に出るたびに感じる寂寥感だけは、本当に深刻なダメージを俺に与えていると言っていいだろう。そう、この世界の誰とも、俺の人生はつながりを持てずにいるからだ。

 ある人は言う。「ネットでの関係なんて、電源を落とせば消えてしまうものだ」と。そしてまた、ある人は言う。「ネットでどれだけ人脈が広がろうが、それは現実のものより劣る」と。

 俺はこれが真理だと思う。が、それと同時に俺はそんな関係性すらままならないという事も事実としてある訳である。悲しい、とは思わないが、少なくともむなしいとは感じているわけである。

 どうして、俺は誰の中にも存在しない人になってしまったのか? その答えだけは考えても考えても明確な真理という奴にはたどり着けない。

 

転勤族と空気無読主義による圧倒的孤立

 俺は恐ろしいほど空気が読めない。無読主義などと大仰に言ったものの、読まないのではなく、読めないのである。しかし、読めないというとなんだかプライドが酷く傷つくので、読まないといっているだけである。

 空気を読めないのではなく、読まないのだと。実に情けない性分である。

 しかし、恐らくこれは、俺の努力不足によるものだと断じるのは少々乱暴すぎるようにも感じる。俺は幼いころから複数回の転勤を繰り返してきているが、そのことがこの空気無読主義と何か関係性があるのではないかと俺は考える。

 実際問題、学校の授業でコミュニケーションの仕方を習うことはない。習うより慣れろと言わんばかりに数年間かけて培っていくものなのだろう。だが、俺は転勤する度にその学習記録をリセットされるような気分にさせられていたのだった。

 おおよそ一年に一回程度の頻度で転校していた俺は、誰かと深い関係性を持つことが出来なかった。悲しいことに友人だと思っていた人は、好きな子の名前を好きな子に直接ばらしやがったろくでなし野郎の大谷と、俺が自分の小説を見せた岡田くらいである。

 俺はその好きな人ばらし事件がきっかけで、好きな子に「アンタあたしのこと好きなんでしょ?」と奴隷的雑用を押し付けられるようになり、大谷と死ぬ寸前になるまでボコボコと殴り合うこととなった訳だが、それほどまでの苛烈な関係性というものはそれ以降は全くなかったと言っていいだろう。

 俺が始めて書いた長編小説を読んで「この間読んだ本よりは面白かった。もっと真剣に書くことを極めたら?」と言ってくれた岡田が、俺のことを友人だと思っていてくれたかどうかは、判断しようがない。

 だが、彼が俺にライトノベルというものを教えてくれ、俺のくだらない「人の心とはいったい何なのか?」という議題に付き合って一日中話してくれたりしていたことを考えると、彼が俺に与えた影響は非常に大きいと言えるだろう。苛烈な関係性とまでは言えないにしろ、そういったどうでもいい事を真面目に取り合ってくれる人はその後現れることはなかったわけである。

 

 だがしかし、悲しいことにその両者とも、いまだ関係性が続いてるかと尋ねられると、俺は沈黙するしかない。まるで物語の中で必要なキャストか何かのように、一つの性質を俺に与えるだけ与えて、どこか別の場所に行ってしまった訳である。

 俺は結局、また誰の中にも存在しない物語の主人公に逆戻りしてしまった訳だ。キミは俺の物語をネットという媒体で読み、俺らしきものを感じるかもしれないが、やはりそれはどこか空想じみているのである。

 

どこにもいない。誰も知らない。

 こうして、俺はどこにもおらず、誰も知らない人物となった訳である。別段このことを悲しいなどと思ったりはしないが、あまり健全ではないと自分自身自覚しているところがある。

 街に繰り出して、様々な人の群れを眺めるたびに、俺の人生とその他多勢の人々の人生が、これっぽっちの関係性も持っていないという事実を突きつけられるわけである。

 これを読んでいるキミは、俺という存在が確かにここにいると感じるだろうが、実のところそれは小説の中に出てくる登場人物の一人と同等の希薄な実在性しか持ち合わせていない。

 キミにとって俺はリアルタイムに返答する物語でしかなく、俺とキミとはそういった希薄な関係性しか築くことが許されない。俺自身はこれを読んでいるキミと親しくなりたいと感じているのかもしれないが、その感情は水槽の中の脳のように現実の実在性を疑うよりかは、十分に疑ってかかっていい空想の産物であるという訳である。

 俺はネットという大きな空想の中にしかいない。血の通っていない電子の空想の中を揺蕩う一つのコンテンツでしかない。

 それは消費される運命にあり、そして、それこそ、電気を落とせば消える夢である。

 ネットでの関係性は希薄なものだろう。だがしかし、俺にはもはやそれしか残されてはいないという訳だ。

 

フリーランサーになるという事

 もしも、俺が立派なサラリーマンになっていたら、それも少し具合が変わってきたのだろうと俺はありもしない架空の人生について考えてみたりもする。

 ある人が書いていたブログを読んで、感じていたことも概ねそれである。

delete-all.hatenablog.com

 俺は、フリーランスを誇る人を見ると、「本当にそれは誇れることなのだろうか?」と考えずにはいられないわけである。ネットでしかつながりがないフリーランスというものは、実際問題どこにも存在しない人生を歩んでいるのと同等なのではないかと思ってしまう訳である。

 確かにそれはなにものにも縛られず、自由な人生かもしれないが、そこには人と人とのつながりというものがすっかり抜け落ちてしまっているのとほぼ同義なのではないかと俺は考えるわけである。

 自由、人に縛られない。なんだかとてつもなく素敵なことのように聞こえるかもしれないが、それは結局のところ、人と人との関係性に疲れているからこそ思う事なのである。人と人との関係性が全くない人からしてみれば、この自由は、どうにも持て余して仕方がないようなものに感じて仕方がない。

 それを誇る気にはどうにもなれない。サラリーマンなんてやってられないとは書けない。フリーランスは素晴らしいとは書けない。俺はいつでも、どこか自分を肯定できずにいるわけである。

 そして、それはネット上での関係性に関してもそうなのだ。

 俺自身そんなネット上での関係性すらまともに築けているかどうか怪しいものだが、果たしてネットだけの関係性というものは本当に正しいのだろうか?

 俺とキミとの空想の関係性というものは、本当に意味のあるものなのだろうか?

 

 俺は今日も、そんなつまらないことをぐじぐじと考えていたのだが、結局答えが出ることはなかった。なんとなく漠然と一時間余りを浪費しただけである。実にもったいない。

 しかし、それでも俺はこの問いの答えが知りたくて、あれこれと無駄な考えに思考を巡らせるわけである。徒労に終わると知ってなお、こんな無駄なあがきを続けているわけである。恐らく、この問いの答えは俺には出せないと知りながらである。

 

 だから、キミ自身も考えてもらいたい。そしてキミだけの答えを教えてほしい。

 ネットで知り合った人は友達に値するか否か、どうか俺の代わりに答えを突き止めてくれないだろうか?

 きっとそれは俺自身がたどり着くことが出来ないものなのだろうけれど、人勢経験豊かなキミであれば、きっと真理に近い考えに、たどり着くことができるのかもしれないのだから。

 

 では、失敬。