「馴れ合いは悪。殺伐が正義」と言い出す奴はバカである
どうも。俺だ。景虎だ。
今日はキャンプファイヤーだぜ。キミも薪をくべてくれたまえ。
そしてキミも火を囲んで歌うのだ。「このバカどもめ!」と互いを罵りながら。俺も楽しい。キミも楽しい。でもそれって、やっぱりバカなんじゃ無いの?
と、そんな「燃やそう。燃やしまくろう」という魂胆が透けて見えるタイトルではあるのだが、俺が常日頃考えることであるから、そろそろ書いておいても良いだろう。
今回考えるのは馴れ合いの是非であり、殺伐の是非である。
ちなみに俺の立場を明確にしておくと「馴れ合いは場合によっては是」であり、「殺伐は限定的には是だが、大部分では悪である」という立場にある。
それでは、何故俺がそんな考え方をしているのか具体的に説明していこうではないか。おっとキミ、その松明は一度床に放りたまえよ。キャンプファイヤーは終わりだ。
よーし、いいかね。それでは始めよう。
馴れ合いを否定して殺伐教徒になるな
photo by Creativity+ Timothy K Hamilton
どうやら、ネット界隈を見ていると「馴れ合いは甘え。殺伐が真理」かのような物言いがまかり通っているが、俺はこれを否定したい。確かに馴れ合いというものは行き過ぎるとろくでもないことになる。俺もこれには同意するのだが、ではこの馴れ合いの反意語は果たして本当に殺伐なのだろうかと考えてみたことはあるだろうか?
そもそも馴れ合いの本質とは何か?
これは即ち娯楽である。人と人とは仲良くなくてはならぬという教義をもった、仲良し教徒によって生み出された非常に享楽的なもので、その楽しさは他のものには変えられないと思うこともあるが、本質的にはろくでもない娯楽なのである。
勿論そのろくでも無さがこの娯楽の本質でもあるのだが、全く無益な肯定コミュニケーションに陥るという毒も含まれている。快楽を乱すものは悪だとされるきらいもあって、この仲良し性を無条件で受け入れられぬものは、その輪に入ることが出来なくなってしまうという訳である。
快楽主義すぎて、実利というものが無視されがちであると言えるだろう。
それでは、殺伐の本質とは何か?
これも即ち娯楽である。人と人とは言葉で殺し合わなくてはならないという殺伐教徒によって作り出されたろくでもない娯楽である。場合によってはこの殺伐教徒によって繰り広げられるプロレスが見ていて楽しく思える事もあるのだが、俺は本質的にこれを好まないし、あまりにも快楽主義すぎていて、実利というものが無視されていることも往々にしてあるのである。キャンプファイヤーを囲んで踊るのは楽しいが、松明を投げ合っても、「バーカバーカ」と歌い合っても、それ以上が無ければ、ただの環境汚染でしか無いわけである。
結局宗派の問題でしか無い
つまり馴れ合いか殺伐かの問題は、宗派がどうであるかの違いでしか無く、仲良し教徒は「仲良しの輪に加われないなんて」と哀れみの目で非信仰者を見やり、逆に殺伐教徒は「反吐が出るような低レベルなコミュだわ」と軽蔑の目で非信仰者を見やるわけである。馬鹿馬鹿しい。実に下らない。
娯楽として、または一種の道具として「馴れ合い」や「殺伐」を用いるのは一向に構わないが、それが本質化していくととたんにろくでもないものに成り下がるのである。一切の否定をせず、ただ仲良くなって気持ちよくなるだけのコミュニティ。これは一時的なものであればそれでも構わないが、年がら年中これでは踊る道化である。
否定し否定し殺し合う殺伐によって作られていくコミュニティー。これは実にろくでもない。何故なら誰も何もせずに、ただただ殺伐として目に付いたものを殴り倒しているだけだからである。
もしも、キミ自身がこのいずれかに偏りすぎていると思っていると感じたら、自制するべきである。どちらに偏っても真ん中に戻ってこれることが重要なのである。
娯楽に溺れすぎず本質に立ち戻れ
まぁ、要約するとそう言うことである。殺伐も馴れ合いも娯楽という意味において同質的なものである。
我々は本質的に仲良くする必要は無い。
ただ互いを認め合えば良いだけである。
仲良しという娯楽に興じるのも良いし、実際問題俺も「馴れ合い」が好きなのだが、この娯楽に興じるあまりに否定的神経を鈍らせてしまってはいけない。お互いを認め合う為には良いところも悪いところもしっかりと認め、対等な立場を持って紳士的に交流することがあってもいい。時には戦争屋になったっていい。
また馴れ合いに時間をかけすぎるというのも良くない。それは楽しいのかもしれないが、一向に中身が見えてこない。終った後に残るのは楽しい気持ちばかりで、何だか空虚な気持ちにさせられることすらある。
楽しさは力だが、缶を開けるには缶切りが必要なのである。
また我々は本質的に殺伐とする必要性はない。
互いの関係性において存在する一種の問題を解決するためにこの殺伐をいうものを用いるのは一向に構わないし、そのプロレスという娯楽についてとやかく言うつもりは無いが、これを楽しむのも時にはいいだろう。しかし、殺しつぶし合っているばかりで、誰もが立たず、先に進まずといった状況は無益である。また、自分自身が他人と馴れ合ったり、仲良くしたり出来ないからといって、殺伐とした状況に陥るのも間違っている。偏ったバイアスによって人を決めつけるのでは無く、その人との交流で自らにどのような利が生れるのかを考え、積極的に努力するべきである。
我々はお互いを本質的に認め合い、お互いの利用価値を高めるためだけに殺伐とした交流をするべきであり、快楽殺人者や快楽戦闘狂に核のスイッチを明け渡してはいけない。またそれは実利主義者にとっては、一種の外交のカードとも言えるものでもあり、むやみやたらにぶっ放すものではない。
さらにそれは本質からぶれつつあるものを殴って治すショック療法とも言えるようなものなのである。また、このブログ記事のように自らの意見を無理矢理にでも読ませるために、殺伐とした空気を醸し出すのも使い道としては間違っていないのではないだろうか?
自画自賛するようで悪いが、これには一定の効用があり、俺は狙い澄ましてこれをやることにしている。
何故なら人は本質的には殺し合いやつぶし合いが好きだからである。それは人類の歴史が証明しており、どれだけ仲良し教徒が否定しようと真理である。
さて、では肝心なところに話を戻そう。
馴れ合い過ぎるのも、殺伐し過ぎるのも良くないとなると、果たして一体どうあるべきなのかという話にだ。これは単純だ。
本質的には人から感謝される実利主義者たれ。これに尽きる。
実利主義というのかは別として
俺のこの考えに「実利主義」などというタグ付けをして良いのかは非常に悩ましいところではあるが、分かりやすくいえば、よくマフィア映画などで、インテリヤクザが「ビジネスの話をしようじゃないか」と言って両手を広げてやたらとキザっぽい顔をするというあれである。
時には馴れ合いも殺伐も忘れる。または、馴れ合いも殺伐も一種の道具としてみる心持ちがあってもいい。
我々インディペンデント作家達は、少なくとも読者を楽しませ、最低限の糊口をしのぎ、己が独立性を保ちつつもより良い作品を世に繰り出していかなくてはならず、そのためには、誰よりも作家でなくてはならず、また編集者でなくてはならず、自らの読者をよく知っていなければならず、またデザイナーでなくてはならず、プロモーションを効果的に行う広告屋でなくてはならず、そしてどこまでもビジネスマンでなくてはいけない――というのはこれまた俺だけの偏った考え方になるのかもしれないが、少なくともこの理想を一つずつ実現していくためには、馴れ合いがありすぎても、殺伐がありすぎても上手く行くわけがない。
好き嫌いを越えた実利的な繋がりが必要になるわけである。
また我々インディペンデント作家達は、馴れ合いを一種の娯楽として嗜むものの、決してそこに重きを置かず、最終的には実利的な見地によって、その交流や会合を行うべきなのだろうと俺自身は思っている訳である。
勿論、「アンタに恩を売っておけば、後で複利がついて返ってくるだろうから、仲良くしといてあげますよ」という身も蓋もない立場は別として、 「ここは共通利益が取れそうだから、協力し合いましょう。やってみましょう」みたいなのはもっとあってもいいのである。無論、ここには殺伐も馴れ合いも道具としてしか存在し得ない方が良い。どちらも最終的には、極端に振れるからである。
コミュニティーを作ると堕サイクルだの閉鎖的かつ排他的になり良くないと言って憚らない人は、その「馴れ合いは悪」思想と縁を切るべきだ。逆にただコミュニティーがあって楽しくあれば別に良いじゃないのと「自らが腐っていっていることに気づけない」のであれば、「馴れ合いばっかりは不毛」だと気づくべきである。
今、その環境が全体にとって利があるのかどうか、実利主義者になって考えるべきなのである。
実利主義者であることを否定するな
ただ、実利主義者などというと、非人間的で、自分の利以外を考えない人間であるとどうしても捉えられがちである。しかし、俺は個人的にそれは間違っていると思うのだ。実のところ、自分の利を最大化するという事は、他者の利を最大化していく作業に他ならず、またそれが実利を得る最も王道とも言える道なのである。
そもそも利益を求めるということは他人に利益を与えるということだ
実のところ自分の利益だけを考えて動いていると、不思議なことに長く続かないのである。
作家にしてみれば、読者に作品を沢山買って読んでもらうという事によって、自分の利益が最大化されるが、例えば「やらせレビューによって読者を騙して買わせた」としよう。短期的には利益が上がるだろうか、最終的には見限られるだろう。
長期的に利益を得ることが出来るのは、数多くの読者をファンにするくらい利益を与えるものであり、「貴方に利益を与えますよ」という熱意と真実味のある人だけだ。
また、競合他社を潰して利益を得ようとするよりも、競合他社に感謝されることをした方が利益が大きく、コストも少ないというケースも多く見受けられる。
これを説明する為に一つたとえ話を上げてみようか。
敵に塩を送ると実際儲かる
キミは「敵に塩を送る」という言葉を知っているだろうか。
これは塩責めにあっていた武田に上杉謙信が塩を送ったという一種の美談として語られているものなのだが、実のところは美談かどうか若干怪しいのである。
何故なら塩を無償提供したのではなく、塩を売るのをやめなかっただけの話だったからである。
塩責めによって苦しんでいる武田には塩が高く売れる上に、恩まで着せることが出来てしまう。これほど、美味しい話はない。
儲かる、感謝される。おおなんと素晴らしい。
「何だか下世話な話だな」と思った人もいるかもしれないが、困っている人を助け、協力し合うことは、利を得る近道なのである。
また先ほどの「儲かる、感謝される」はほとんどの場合順序が逆で「感謝されるからこそ儲かる」のである。儲かるなんて言い方をするともの凄く嫌悪感を抱く人もいるが、そういう人は「感謝されると人が集まる」「感謝されると助けられる」「感謝されると尊敬される」と考えて貰っても構わない。
実際問題、自分の利益しか考えていないものは最終的に本当の利益というものを見失ってしまう。そうなると結局、本当の利益が見えている人にすべてをかっさわられて、大損をする上に、敵をことごとく増やしてしまうと言う訳である。
電子書籍界隈の人は、きんどう氏やろす氏、高橋文樹氏や藤井大洋氏を見てみて欲しい。少なくとも彼らは人に感謝されること、他人に利益を与えることを、無意識的か、善意か、打算かは別にしても、それぞれ形は違えど行っており、それぞれが違った形の利益を享受しているわけである。
そして馴れ合いや殺伐にこだわりすぎるという事は全くこれとは逆の道なのである。
どちらかに固執しすぎたり、行きすぎれば、本質ではない所へとたどり着いてしまう。これはキミにとっても望むべく結末を与えないであろう。
まとめ
何度も言うが、馴れ合いも殺伐も過ぎれば悪である。
その事を決して忘れてはならない。楽しいのは良いが幸せはもっと良いものだ。
キャンプファイヤーは楽しいが、毎日やるものでは無い。
火を囲んで歌うのも良いが、時には火の使い道を考えてみるのも良い。
無意識的か、善意か、打算かなど下らないことはどうでも良いから、他人に多くの利益を灯し、自分を照らす太陽とせよ。そうすると幸せと利益はもてあますほど多くなっていくことだろう。
そして、何より俺のような頭の中でばかり火について考える、口ばっかりの人間には決してなるなよな。
俺が言いたいのは以上だ。
では、失敬。
(いやね、オフ会は楽しかったんだけどね。いつ如何なる時も自己批判を忘れるなってね)