景虎日記

無駄な考え、無駄なあがき、無駄な偏愛と偏見による電子書籍とWeb小説、その他もろもろの記述。

映画「屍者の帝国」を見て俺が考えずにはいられなかったこと。

 小説家というものを実装するためには、おおよそ三つの要素が必要となる。

 それは、「理解」「再構成」「出力」である。

 

 理解とは即ち想像力のことを意味する。

 我々は、何かを完全に理解したと思い込む節があるが、キミと俺とを直接脳を繋いだとしてもこれっぽっちも「理解」することは出来ないように、それぞれが独立した自我を持つものには絶望的なまでの隔たりがある。

 心震え、平生なる精神状態でいられないほどに感動した作品であったとしても、それは当人が鼻をほじりながら作ったものかもしれないし、ほんの暇つぶしに作ったものかもしれない。

 またそれを読んだ人が思った気持ちとは全く別の気持ちで書いたかもしれないし、別のテーマを伝えたったのかもしれない。

 作品にどれだけ深刻かつ深淵なテーマが込められていようと、彼にとってそれはただの悪趣味な娯楽であったのかもしれない。

 

 理解をするためには、作者と直接対話し理解した気になるか、作者よりもその物事を理解しなくてはいけないだろう。

 それは即ち、それが意味するものを想像するということだ。

 仮に作者が「これは百合小説なんですよ」と言い張ろうとも、ハーモニーという作品に対してそれ以外の意義を見出したとするならば、それは貴方が、貴方自身のためにその作品を理解したということになる。

 作品の面白さをどこまで深く掘り下げて語れるかということもそうだろう。

 それは深く理解しているということーーつまりは、その作品に対してどこまで想像力を働かせられるかという事である。

 想像か対話によってでしか、理解は生み出せない。

 いや、もっと突き詰めていけば、想像することでしか、人は物事を理解することができない。

 そして、伊藤計劃という人間は、この世に存在しうるものの中でも極めて理解に優れた作家であったのだと、俺は思っている。

 また、多くのファンや作家たちが、彼に惹きつけられてやまないのは、彼の作品を理解したい、彼を知りたい、つまり彼と対話したいという気持ちの表れなのだと思う。

 そして、それはもはや永遠に叶うことのないという絶望的なまでの片思いが、彼を神格化させてしまうのだろう。これはいわば恋だ。もはやそれは永遠に叶いそうもないけれど。

 次に「再構成」これがなければ話にならない。

 中には作品という物に真なるオリジナリティなどというものが本気で存在していると盲信している人もいるが、それはない。

 我々が、何かを思うとき、何かを考えるとき、物語を作るとき、無から有を生み出そうとするとき、何かを決定づけ、何かを確信し、そして理解するときには、これまで経験したものから一切の影響や、制約を受けずにいることは出来ない。

 キミがいくら誰からも影響を受けていないと主張しようが、生み出すものは所詮誰かの写本であり、そして、キミ自身も、何かの写本なのである。

 この世で自分だけが、特別で、真なるオリジナリティーを持っていると信じている人がいるとすれば、それは君自身を成り立たせていると言える先人たちに対して、あまりにも理解が足らないと言えるだろう。

 我々が、あらゆるものから影響され、受け取り、理解したもの、それを再構成することによってでしかオリジナリティーは生まれてこない。キミが何かに対して感じたオリジナリティーは元々、誰かのもの、そしてその人のオリジナリティーもきっと誰かのものだ。そうして、物語というものはそんな世界の中に揺蕩うものを再構成していく作業に他ならないのだろう。

 つまり、その再構成の能力が優れていればいるほど、オリジナリティーのある作家だと言われることになるということだ。

 伊藤計劃は、その影響されているものが比較的見え透いてはいる部分があるものの、その類稀なる理解と、そこに込められた途方も無い愛、そして引き出しの多さから、様々な人から愛されているのだろうと俺は思う。
 
 最後に出力。これが最後にしてそして、小説家を小説家たらしめる要素になるのだろう。どれだけ思考を巡らせようと、どれだけ頭の中で物語をこねくり回そうと出力できなければ、話にならない。的確な言葉で、適切な表現で、それが最も効果を発揮するように考えなくてはいけないし、勿論それは小説として成立しなくてはいけない。

 そして、伊藤計劃はおそらく、最初はこれを持っていなかったのだと思う。小島さんが語っているように、彼はそれを修練の中で体得し、最終的には立派な小説という形で作品を送り出すことが出来たのだと思う。むしろその「これだけの作品を送り出していながらまだ伸びしろがある、完成しきっていない」という事実に、次の作品が読みたいと思わせられるファンも多かったのでは無いかと思うのである。

 

 長くはなったが、小説家を実装するにはこの三つが必要となる。その度合いは人それぞれだが、どれか一つでも欠けているならば、作家として成立しない。

 伊藤計劃は理解に優れ、円城塔は出力に優れた作家なのでは無いかと個人的には思っているのだが、これはいわば作家だけに限らず、すべての作品に共通して言えることなのでは無いかとも、俺は思うわけである。

 そして、この「屍者の帝国」という映画は、これらの三つに対してとてつもなく真摯に取り組んだ作品なのだと俺は思ったのだ。

 まずは理解、この映画においては伊藤計劃と円城塔に対する理解であり、そして、伊藤計劃と我々というものの関係にに対しての理解でもあり、さらに円城塔が書き上げたものへの理解であり、そして、彼が、伊藤計劃が書き終えることのなかった、屍者の帝国という作品に対しての理解という事になるのだろう。

 小説を書くのと、映画を作るのは違う。もっと違う部分での深い理解が必要になるだろう。

 理解するためには、対話か、想像が必要だ。

 しかし、残念なことに彼はこの世にはいない。

 円城塔が書いているように、屍人と対話を試みようとしても、答えなど帰ってくるはずがない。同様に、伊藤計劃ならなんと言ったのかと、心の中で問いかけることも無益だろう。それはあたかも屍人を、伊藤計劃を蘇らせようとしても、不気味の谷に落ちるだけであるように。無意味になぞるだけだとしたら、それは単なる原作の劣化になる。本物の魂を込めるならそれではいけないのである。

 彼が、メタルギアのノベライズをノベライズで終らせなかったように、理解せずに見た目だけ、表面だけを整えてしまったとしたら、屍者のような不気味な動きをするだけのものになっていたのだろう。

 そこには物語が生れる意味も、意義も無い。円城塔がそうしなかったように、映画版のスタッフもそうしなかったのだろうと俺は思った。そしてまた円城塔の書き上げたものを体面だけなぞることをしなかったのも、そういう所から来るモノなのだろう。

 俺はこれを素直に評価したい。人はそれを冒涜と言うかもしれないけれど。

 

 次に再構成、これも見事だったと俺は思う。人によっては違う感想を抱く人もいるかもしれないが、俺は見事だったと拍手を送りたいのだ。そもそもの「原作」というものが無いという状況で、円城塔がそれを成し遂げたように、アニメスタッフも別の形でそれを成し遂げたと言えるだろう。これはある種円城塔が見落としていた部分も、拾い上げていたといえるのでは無いかと、思っているのである。


 そして出力、これに関しては賛否両論あるのかもしれないが、少なくともアニメ事情に詳しくない俺にとって十分すぎるほど贅沢なものだったと言える。その世界に漂う空気感は確実に彼の作品によって想起されるものと同じであったし、結果としてその出力は、人によっては重要だと思う部分を見せていないわけだけれど、俺はともかくこれ以上のものは出力し得なかったと思うのだ。

 

 なんにせよ。それは人によってはあまりにも冒涜的な物だと言えるだろう。わざわざ、墓を掘り起こす真似なんてしなくて言いと俺も思っていた。考えていた。

 小説家伊藤計劃を改めて実装する位なら、その時間で別のものを作れば良いと、俺自身も比較的本気で考えていたくらいだ。だが、それは間違いだったのかもしれないとこの作品を見て思ったのだ。

 そこには彼の愛した世界が、実に深刻なテーマの娯楽があったように思えた。

 そして、そこに実装されていたのは、間違いなく、彼であり、そして彼の残した計劃であったように思えたのである。

 

追記

 我ながら恥ずかしい文章が書けるものだなぁと、改めて上から読み返してみて思ったが、これはこのまま公開することにする。そもそも、俺が彼の作品を読み始めたときには既に彼は死んでいて、俺はすっかりラブレターを出し損ねてしまった訳なのである。

 ラブレターというものは実際問題、書いた当人はともかくとして、全く関係の無い人が読んだら恥ずかしいものなんだろう。だが、結局これをどこかに出さないと、もう俺の中にあるわだかまりが一向に昇華されないままなのである。

 これを書いた今となっても、未だに、そのことに関するわだかまりの気持ちはまだまだ残っているのだが、まぁ、今日のこれでもう決着がついたという事にする。

 あとまともなレビューも改めて書こうと思う。ネタバレありでである。

 では、失敬。

 

屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国 (河出文庫)