ライトノベルの俺なりの定義を教えてやる!
どうも。俺だ。景虎だ。
今回の記事はライトノベルというものの定義を考えていく記事となるわけだが、その発端は勿論、コヲロコヲロの作者である永元千尋がライトノベルというジャンルについて色々と考えている記事を読んでのことである。そう、よからぬ思考に火が付いた訳である。
聴衆よ聞け! キミよそこに座れ! 今日は俺がお前にラノベの定義を教える!
俺が俺なりに考えた最強のライトノベルの定義!
それを今日は、三つほど提案してみようじゃ無いか!
大人しく聞いて反論してみるが良い。
多分穴だらけの定義だけどね。
萌えるものがラノベだよ説
萌えるものがラノベだよ説というものを聞いて、「俺の好きなラノベにはそんな萌え萌えしたキャラが出てこないよ」と反論する人がいるかもしれない。だが、もはや人類の有する萌えというものは必ずしも、女キャラやまな板胸娘だとは限らない。
そう、超越しているのである。我々日本人は、ありとあらゆるものに萌えることが出来るように、遺伝子改造され、現在に至っているのである。(暴論)
その最たるものが「思考萌え」と呼ばれるものだ。
これは特に、僕、思考、メタ的状況、世界という構成要素を持っている事が多い。いわゆるセカイ系と呼ばれるライトノベルジャンルではあるのだが、これはどう控えめに考えても、思考に萌えている。一見すると僕、彼女、セカイという、自分とセカイとを隔てているはずの大きな存在(例えば日本政府とか自衛隊とか)をすっ飛ばして、僕、彼女、セカイという構造からくる深刻な状況、そしてそこに生れる愛やその諸々というものにフィーチャーされがちだが、それは違う!
それは実は違うのだ。本質ではない。本質としてあるのは、僕、彼女、セカイ、という状況から生れる思考にある。これはそういった状況にあるものの愛という事で帰着することがほとんどだが、最も重要なのはそこでの思考なのである。
街でナンパして女を引っかけても、セカイが破滅しそうな状況で愛が生れようと、本質的には何も変わらないはずだ。そこで異なるものがあるとすれば、そう、思考である。
僕は、彼女を愛しているようでいて、本質はそこに至るまでの思考を愛している。それが思考萌えであり、思考実験的なSFに対して「いや、これラノベだよ」と評する人がいるのはおそらくこのせいなのだ。
「え、でもそれ難解なSFじゃ言われなくね?」と言う人もいるだろうが、それは思考が成り立たないからである。難しすぎて思考が成り立たないと、流石に思考できないのだから萌えることが出来ない。そう言う人にとっては、それが思考萌えの範疇に入らない。よってラノベとは言えなくなるのである。
つまり、ライトノベルとは萌えることが出来なくなるほど難解なものでは無いということでもあるのだ。
何が言いたいかと言うと……。
「伊藤計劃作品はある種の思考萌えラノベ」だって事!(放言)
さてはて、つまり、萌えるための制約が少ないものがライトノベルと呼ばれている説ってことだよ。これ「俺のラノベだと認めたものがラノベだ」と何も変わらないよね。
作家と憧れによって定義されたもの説
例えば、ヒロインがグーパンで殴られて、鼻血を出すジャンルというものを新しくここに制定すると俺が高らかに吠えたとする。ヒグ血系ジャンルと定義することにする。だが、これはきっと流行らないしジャンルとしても認められない。
何故なら、後を追う人がいないからである。
そもさんジャンルというものは多くの作家が参入すること、すなわちその傾向を持ったものが数多く生れない限りは定義されない。つまりは、その後から参入した人物が、どこに惹かれたのかという部分の最大公約数がそのジャンルの定義になるわけである。
ライトノベルに関して言えば、どうだろうか?
言えるわけ無いだろバカが!
そうだ。キミはそう返すだろう。何故ならそれぞれの性癖も萌えもバラバラ過ぎて最大公約数が導き出せない訳である。そもそも可愛い絵がついていないライトノベルもあるくらいだから、もう致命的にバラバラだ。
だから、結局の所、自分の好きな作家がライトノベル作家だったから、それと似た作品を書いているからという部分でしか、結局の所俺たちは、ライトノベルか否かを判断できないわけである。
そう、そのジャンルはありとあらゆる人が、己の萌えたものに対して追求していった帰結なのだから、答えが出るわけがないだろう。え、俺が何に萌えるかって?
鼻血出してるヒロインに萌えるよ? 悪い?
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非モテ性がラノベだよ説
これはかなり乱暴だが、非モテ文学こそが、ライトノベルの根源なのでは無いかと、俺は考えている。女の子が悲惨な目に遭って、でもあたし負けないよ的な展開になる携帯小説はラノベとは言われないだろう。それは非モテさから来るものでは無いからである。リア充よ爆発しろ。分子構造崩壊しろ。という感じの空気が漂う文学である。
あ、面白いけどこんなの読んでたらモテないぞ!
でも良いもん俺これ好きだもん!
モテない趣味でも良いもん! 非リア充で結構! ここは楽しい地獄だよ!
そんな感じのがラノベだ!!(暴論)
ハーレム系ラノベ、転生系なろう小説、思考系SF、などなどがことごとく、非リアに属しているのもそうだろう。キミがもし「いや、俺の知っているラノベはなんかモテそうな感じするよ」と言うのであれば、その作品名を挙げて欲しい。
さて、一つでも見つかったかね?
そういう事なのである!(血涙)
つまり、キャラクターの一つをとってもそうだろう。
ライトノベルに出てくる多くのヒロインと言うものは現実の女性とはかけ離れている。実際の女の子があんなものな訳が無い。モテないから転生とか恥ずかしくないの? グダグダあれこれ考えている暇があるなら女の子の一人や二人引っかけてこい!
あ? なに? 未来がヤバいって? アホか! ナンパしろ!
そんなそしりを免れない要素があるのがおそらくラノベだ。
恋愛工学などという、実に下らないものから最も遠くの場所にあるのがライトノベルだ。高尚である。そして、恋愛工学を地で行くキャラクターが、多くの場合、ヒロインに手を出そうとするチンピラ役として出てくるのが、もはやテンプレ化さえしているのがその最たるものだろう。リア充よ爆発しろ。神がそう望まなくとも。
また現実性を廃して、ある種の寓話的産物になっているものもラノベだろう。いわゆる現実から逃げている感じの……うん、やめよう。悲しくなってきた。
良いじゃ無いか逃げても! これは戦略的撤退なのだから!
まぁ、そういうわけで、ライトノベルというものは、悲しくも非モテ、非リア充的趣向から来ていると言わざるを得ない。そして、それが次第にライトでなくなっていく事も身をもって知っている。
だが、そのセカイは明らかに我々のどこかで望んでいた物であり、心地が良い。
「ここは楽しい地獄だよ!」
その心地よさというものが、ライトノベルに執着させる人間を未だに生みだす理由なのだろう。
お、良い感じにまとまった。
と言うわけだ。
これが俺なりのライトノベルの定義である。
まぁ、勿論俺も、非モテの惑星に魅入られた人の一人な訳だけれどね。
では、失敬。