なぜ今更俺がはてなブログを始めるに至ったのか?
どうも。俺だ。景虎だ。
今回は記念すべきはてなブログの一番最初の記事として、なぜ俺が今更はてなブログなどというものを始めるに至ったのかについて語り尽くそうと思うわけだが、おそらくそんな事はこれっぽっちも書かれていないと予め忠告しておこう。何故って? それは俺が類稀なるきまぐれさの持ち主だからだ。
そもそも、この記事に偶然たどり着いた読者のほとんどが、そのような些事には一縷の興味も疑問も抱いていないということは想像に難くない。天下の大作家や世に名だたるアルファブロガーとやらであれば、なぜ今更はてなブログなどをと若干の下世話な興味が湧いてこようものの、俺はあいにくさま全くの無名と来ている。どうでもいいのだろう。そんなことは。それに関してはこの俺も重々承知している。むしろ無知蒙昧たる俺が、偉そうにグダグダと話を続けることに対して、既に怒りに似た感情を抱きつつある者もいるかもしれぬ。
だが、まあいい。そんなことこそどうでもいいのだ。とにかく黙って聞きたまえよ。俺は誰がなんといおうと語り尽くす心持ちなのだから、キミよ。黙って聞いていろ。きっとつまらないから、心して聞くように。
まずは俺について少しだけ語る
俺が如何にして生まれ、如何に育ち、如何にして蒙昧の王となったのか、長々とデビットカパーフィールドよろしく知りたいなどという人はおそらくこの世のどこを探してもいないだろう。
俺が無名であるという事実は、ググらずともわかる公然たる事実であることだ。だがまぁ、そろそろ言い訳もしつこくなってきた訳だから語り始めよう。聞きたまえ、そこのキミよ。
まずは俺の職業だが、世間一般ではライターと呼ばれている底辺職に従事している。
俺がつまらない文章や、見るに堪えないテキストデータの糞の山をかき集めて、担当者や依頼人なる人物に送りつけると、どうやらそれは少しは役に立つ糞になると見え、KB計りで300円から600円の価値を持ち、幾ばくかのオッサンの絵が描かれた紙へと化けるという不思議極まりないお仕事である。
俺自身、文章を書くのが下手くそでどうしようもないということもあり、時折鏡を見つめながら「なぜお前は生きているのか?」と哲学的な問いを投げる事もあるが、答えは今の所でない。まぁ、答えなどどうでも良いのだろう。既に二十年余生きてきてはいるが、答えが出た事など一度もなかったのだから。
それはどうでもいい。何故それがはてなブログにつながるのかという事が、一番の問題だと賢いキミなら思った事だろう。流石、IQ240の天才だけある。答えが出る事など本来は中々無いものだが、これに関しては俺が答えをこっそり教えてあげよう。
脳に溜まる言葉達
脳に溜まる言葉達というのは如何にも小説のタイトルっぽいものではあるが、勿論そんな本はこの世に存在しない。俺が仕事によって苦しめられるのは、「いつもこの脳に溜まる言葉達のせいだった」という訳だ。
俺は四六時中考えている。それもどうでもいい事をだ。何故空は青いのか、青とは何故青たりえるのか、誰が一番最初に青を青だと思ったのか、それは一編の疑念も抱けない真実なのだろうか、真実とはなにか、真実を真実だと一番最初に知ったのは一体誰なのか、誰とはなにか、俺は一体何を考えているのか、考えるとは何事か、俺は本当に何かを考えているのか、誰かが俺に考えさせている可能性はないだろうか、俺は苦しい。もう考えたくない。何も考えたくない。何も考えなくするにはどうするかを考え始めてようやく現実へと思考が向き、それより先に原稿をやっつけなくてはいけない事を思い出す。 俺の思考は、俺の脳を飛び交う言葉の乱痴気騒ぎは、いつだって俺の思い通りにはならない。それが元で、「お前の話は飛躍しすぎてよくわからない」とよく言われてきた。俺だってよくわからないさ。
どうすれば、この地獄の脳から自由になれるのだろうか。俺は時折それを考えていたのだった。
職業病をどうするかの答えとは?
どうにも、この仕事は地獄の脳への鍵らしかった。仕事柄様々な事柄の文章を常日頃から書き連ねてはいるが、人と殆ど会話する事の無い生活は、脳の文字数をやたらと増やし続ける。それはkbなどという生易しいものでは無い。俺が好む好まざるを別として、既にその脳を飛び交う言葉達はTBの域まで達しているのだろう。俺は時折、頭の後ろが熱くなりすぎて、苦しくなる事があるのだが、まさにこの言葉の乱舞に割かれている無駄なリソースこそが、それを引き起こしているのでは無いかと考えるに至った訳である。どうにかしないと気が狂いそうだった。むしゃくしゃしてやった。今は後悔しているなどと、犯罪者めいた言葉を並べつつも、俺は次第にどうするべきなのか、見当がつよくようになってきた。そして、どうにかする事にした訳である。
最初は一つのテキストファイルから始まった
俺のとった手段は大して、変わった方法ではなかった。ただ、単に頭の中にたまり続ける言葉達をひたすら脳の中から追い出していくだけだった。PCのストレージにあまりがない時に、外部ストレージへと追いやるのと一緒だ。実に単純極まりないとキミも思ったことだろう? 真理とはいつもそういうものなのだ。
そして俺は一つのテキストファイルを作り、Markdown形式で頭の中の言葉達を追い立てていった。特に脈絡がある訳でもないが、とにかく心地よさだけを重視して、書き続ける。次第に俺の脳は俺のコントロール下に戻り始め、夜になると脳に邪魔されることなく、ぐっすりと眠れるようになったというわけである。ぐっすりふかふか布団で眠れるというのは、人生の中でも最も幸福な事である。人はだれだって寝てばかりいるのだから。
無駄なモノが世界にあってもいいと考え始めたのか?
しかし、ある日俺はそんな脳から溢れ出した取り留めもない文章を改めて読み返してみて、これをどうしようかと考え始めていた。特段どうするつもりで書いたものでもないが、量が増えていくうちになんだか気味が悪くなってきたのだ。この化物を俺が消し去る事は出来ないだろう。俺にはただ、テキストファイルという牢屋に入れて一時の安心を手に入れる事しかできやしない。無駄な考えを俺にやめろと言ったって、無駄とは何かと考え始めるだけだ。無駄を食らって育った化物は、俺自身の意思とは無関係ではあるものの、俺自身が育てているのは間違いない。どうする。どうしようか。さぁ、皆んなで考えてみてほしい。俺が考えると余計事態が悪くなるのだから。
まぁ、そうやって、グジグジとしていても仕方がないのは俺にだってわかる。俺は再びどうにかするつもりだった。俺は結局、その化物を知り合いに話のネタに見せることにしたのだった。
無駄な考え、無駄なあがき
知り合いは、「よくぞこんなに無駄なことをポイポイ書けるものだな」と最初は笑っていたのだが、次第に「こんな無駄なものが世の中に広まってもいいんじゃないか?」と痛く真面目な顔をしながら、まじまじと俺を見た。
それは俺も考えていたことだ。この化物を俺から少しでも遠ざけるには養子に出したほうが良いと。具体的に言うなれば、ネット上にポイ捨てしてしまうのもちょっとそれはそれで愉快なんじゃないかということだ。
しかし、ネットとは基本的に有用さと、利便性で成り立っている物だと俺は少なからず思っていたのだ。キミだってそうだろう。この記事を開いた時は、幾ばくか有用なものがあるに違いないと思ったはずだ。そんな期待はしていなかった? 馬鹿な……。もっと期待はしてくれていい。
さてはて。期待はしてくれていいとは言った物の、ネットとはいう奴は期待だけでは成り立たない。やはり、有用性と利便性がないとダメなんだろう。
だがな、俺はあいにく様有用さとは無縁の男だ。正しさとはこれっぽっちも関わったことがない人間だ。便利とは程遠い地域で暮らしており、人の為になりたいと二十年余生きてきて、その悲願が一度たりとも叶わなかった男である。今も、それをどこかで信じているものの、この化物がそうであるように、俺もこの世界にとって無駄極まりないものだ。
ネットの世界に必要なのか? 不要なのか? 答えなんかとっくの昔に知っていた。それでも、知り合いの「無駄や不要がこの世界に広まっても良い」という言葉によって、俺も少しだけ考えが変わったのだった。無駄で良い。不要で良い。中には実用性のあるものもあるのかも知れぬが、それのみにこだわり続ける必要はどこにもない。
だからこそ、俺は「はてなブログ」を始めるに至ったという訳である。
「はてなブログ」なら無駄が多少落ちていたって誰も気にしないだろう。有用性や利便性が欠如している物も少しはあってもいいだろうと。
それに無駄で、読んでも大して害しかないような、そんな化物を世の中に不法投棄してやるのも、少しは役に立つのかも知れないとね。迷惑だけど。
まとめ
最後に、一つだけ改めてキミに忠告したい。
このブログは有用さを保証しない、情報の正しさも、理念のあり方もない、ただただ文字が馬鹿みたいにあるだけだ。読んで楽しいと感じるかどうかはキミ次第になるわけだが、別に腹を立てながら読む必要は決してない。ただただ文字があるだけだ。そこには如何なる理由もない。
共通するのはやはり無駄だということである。無駄な考え、無駄なあがき、俺の好きな物だよ。俺を苦しめる物でもあるそれは、今このはてなブログの世界に野放しになった。
時間を食い殺される事になろうが、キミの脳に対してやけに懐こうが、俺は知ったこっちゃない。
俺から言える事は、ちょっとした心構えに過ぎない。
考えるな。笑って生きろ。それと、
絶望するな、では失敬。