景虎日記

無駄な考え、無駄なあがき、無駄な偏愛と偏見による電子書籍とWeb小説、その他もろもろの記述。

「コミケに行ってもやっぱり俺はひとりぼっち」の話

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 どうも。友達がいない俺だ。景虎だ。

 今回はしなくてもいい話をしようと思う。しなくてもいい話だから、しないほうが良いに決まっているのだが、あえて話すことにしよう。自分自身の心を深く抉ると知っていながらも、俺は話すと決めたら話す男だからである。痛いとわかっていても、おできをつぶす男だからである。賢者になると知っていても、あくなき探求心を忘れない「男」だからである。

 

ひとりぼっちのコミケは普通なのか?

 俺はこの夏、珍しく夏コミに一般参加した。それも一日目、二日目、三日目とフルタイムでコミケ任務に従軍した。ぬるくなったポカリをすすりつつ、泥の中を這いつくばり、直射日光という名の銃弾で息も絶え絶えになってはいたものの、何だかんだ言って楽しいお祭りだったと俺は心のそこから思っているし、あの勇ましいコミケスタッフの雄姿を見て感動に打ち震えていたほどだ。良いコミケではあった。

 だがしかし、あれだけ人がたくさんいると、どうにもこうにも考えさせられてしまうことが一つだけある。そう、なぜ俺は「これだけ人がいるのにひとりぼっちなのだろうか?」ということである。

 俺には友達と呼べる人が一人もいない。「僕は友達が少ない」というライトノベルのタイトルを見て、「俺はいねーんだよクソが! 少ないってなんだよクソが! 少ない友達を大事にしやがれよクソが!」といらぬ八つ当たりと親切をないまぜにするほどに友達がいない。「俺は友達が少ないからなぁ」などと言っている奴が俺の周囲1000km以内にいたとしたら、完全に射程圏内だ。何の射程なのかはキミがおびえると困るから黙っておくが、それにしてもなぜ俺はいつだって一人なのか?

 

俺は普通だと信じたいけれど

 ひとりぼっちのコミケ。俺はこれを普通だと信じたい。むしろコミケというお祭りは、そうやってひとりぼっちな人でも、何かしらの役割を無意識的に与えられ、全体として素晴らしいお祭りになるのだと、俺はとっくの昔に知っている。一般常識だ。一般人ではないけれど。

 普通だ。アブノーマルな人だけれど。

 そうだ。普通。普通なのだろう。普通であるはずだ。俺は普通だと信じたい。しかし、確証とかけて俺の人生ととく、そのこころはどちらも「持てない(モテない)」としか言いようがない。大喜利形式にでもしないと、どちらも心が複雑骨折しそうな真実である。

 しかし、なぜ、俺は誰とも仲良くできないのか? それを知るためには、教えてくれる友達を探すところから始めなくてはいけない。LV1なのに最初の村でいきなり「魔王を倒さないと経験値上がらないよ」と村人Aに言われた勇者のように、俺は茫然自失としているのであった。

なぜ俺は仲良しになれないのか

 これについて、色々と考えた結果。俺には「仲良し回路」が備わっていないとの結論が出た。「仲良し回路」とは人と仲良くするために必要な回路であり、「空気の読み取り機構」「人に話しかける機構」「古くからの友達がいる機構」の三つからなりたっているものである。

 俺は空気の読み取り機構の代わりに、電波の読み取り機構がついているうえ、「人に話しかけるのは失礼だ」と常日頃思っているタチの人間である。だからもちろんTwitterなどで、TLに興味のありそうなことが流れてきてもファボとRTしかすることが出来ない。「仲良し回路」がついていないからである。リプライが飛んできても、「ひょっとして不快に思わないだろうか」と手が止まるタチである。俺がLINEという文化に参入できないでいるのもまさしくそれが原因である。

 もちろんリアルでも同じである。誰かと話した記憶がない。記憶喪失なのではないかと思いたいが、誰とも話していない記憶は残念ながらある。俺が記憶をねつ造している可能性もぬぐえないが、もしもそうであったとしたらひとえにSF小説の読みすぎである。

 それに、「古くからの友達」これは俺が最も重要なのではないかと考えている機構なのだが、一年か半年ペースで引っ越し続けてきた俺にそんなものはいなかった。

 それを俺は可哀そうなことだとは思わないし、別段よくあることなんじゃないかと思ってはいるが、「仲良くするための方法」を真摯に学ばずに、「やっべー筒井康隆先生やっべー」とフルチンで本を睨みつけながら過ごしたあの夏はやっぱり間違っていたんじゃないかと今さらながら思っているのである。

 フルチンが間違いだったのか、筒井康隆先生が間違っていたのか俺にはわからないが、もしも、筒井康隆を読んだことがなければ、是非にフルチンなって証明してほしいと俺はキミにすべてを託すこととする。筒井康隆ももちろん読むべきだ。

 ラノベしか読まないのであればビアンカオーバースタディーを読めばいい、しかし友達がいないなら俺は何を読めばいい。何をすればいい。そんな簡単そうなことが今の俺にはよくわからないのである。男のアレを集める女の子の話を読んでも、この問題は解決しないわけである。

 

ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS)

ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS)

 

 

仲良しは幸せか?

 友達を作り、幸せになるためにはやはり「仲良し回路」が必要なのではないかと俺は思う。もちろん一人でいることが嫌いなわけではない。悪びれてもいない。俺は年がら年中一人でいるから別にそれは普通のことである。

 人頻繁に出会う仕事でもないわけだから、生活に不都合があるような訳ではないのだ。それでも、俺は考えてしまう。幸せには「仲良し」が必要なんじゃないかと。

 普段は平然としていても、そのありふれた幸せが俺の人生の中にだけないのだと想像する度にやっぱりどうしてか悲しくなるのである。幸せになるために無理やり仲良くなるなんてのは間違っているとは思うし、別に誰かと仲良くならなくたって生きていける。そんなことは当事者である俺が一番よく知っているのだが、そんな必要ないものが、やっぱり俺には必要なのではないかと考えるわけだ。

 

尊敬こそが友人の始まりだ

 しかし、こういう格言もある。

 仲良しな人は友達ではない。尊敬しあうことが出来る人が真の友達である。

 

 この格言から察するに、仲良くなることだけでは決して幸せにはなれないのだろうということがわかる。本当にお互いを幸せにできる友人関係を築き上げるためには、お互いをお互いが尊敬しあうことが最も重要だということが、俺にもわかる。

 友達が一人もいない俺にだって、この格言の示す真理ははっきりと理解できてはいるのだが、おそらく、この格言が、数週間前に破れかぶれになった俺が便所紙に書きつけた格言であるということも、俺にはちゃあんとわかっている。

 

尊敬される人にまずはなるということで

 格のかけらもない格言であるではあるが、俺はやっぱり、これこそが真理であると信じたいと思っている。尊敬される人になろう、いまだに寝小便漏らすけど。立派な人になろう、いまだにピーマン残すけど。

 尊敬し、尊敬される。そんな人生がいつかは来れば良いな、なんて俺は考えるわけである。道のりは恐ろしく険しいだろう。しかし、進む前から心折れるようなやわな人間ではないのである。キミも、もし今のところは友達がいないのだとしたら、俺の同志である。共に進もう。冬コミまでにはきっと答えが出るはずである。人から尊敬され、尊敬することこそが友達への近道である。

 

 だから、

 絶望するな、では失敬。